世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
せっかくだし、
もう少しだけ、クリスマスの余韻を楽しもうと思った。

煌びやかなディスプレイが並ぶフロアを、紙袋を手に、ひとり歩く。
ショーケースにはキラキラと光るアクセサリーや、
可愛らしいファッション小物たち。

ふと、階下の催事場のほうから、
軽やかで、でもどこかぎこちないピアノの音が聞こえてきた。

不思議と足がそちらへ向かう。
近くまで来ると、どうやらピアノの試聴会と受注販売のイベントらしい。

子供たちが交代で鍵盤に触れて、楽しそうに音を鳴らしている。
少し離れた場所には、大人たちが集まって、真剣な表情でピアノを見つめていた。

「初心者向けからプロモデルまで、自由に弾いてみてください」

そんな札が立っている。

その奥。
人だかりの少ない一角に、目が留まる。

一目見てわかる。
黒く艶めくそのフォルム。重厚感ある美しい造り。

老舗ブランド「KANERO」の最高級クラス。
あれは……世界的なホールでしか見たことがないピアノだ。

まさか、こんな場所に。
しかも、自由に弾いていいなんて——

胸がざわついた。
指が勝手に反応する。

私は、周囲を気にしながら、そっと椅子に腰を下ろす。
呼吸を整え、鍵盤に手を置いた。

あくまで、初心者のふりをして。
ぎこちない動きで、指をゆっくりと動かす。

——そのときだった。

「……あの」

声がした。

顔を上げると、
30歳前後だろうか。落ち着いた雰囲気の男性が、こちらを見ていた。

スーツでもなく、販売員のような名札もない。
けれど、ただの来場者というには——その目が、違っていた。

「そのピアノ、気になりましたか?」

低く、穏やかな声だった。
< 8 / 217 >

この作品をシェア

pagetop