世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
ソファからそっと身体を起こした。
まだ熱はあるけど、さっきよりはずいぶんマシだった。

湊が差し出してくれたコップを、両手で受け取る。
ひと口、水を含むと、のどを冷たい感覚が流れていった。

「……いっそ“お試し同棲”して、
ちょーやばい女のふりでもしようかなって……」

そう言って、無理やり口角を上げる。

「向こうから“この人とは無理です”って言ってもらえたら、
母も少しは諦めるかなって」

自分でも苦しくなるような、嘘っぽい笑顔。

でも――
すぐに、その笑顔は崩れていった。

「……でも、私って……なんにもできないんだなって思いました」

視線は自然と、リビングの棚へと向かう。

そこには、整然と並べられたトロフィーと賞状。
全部、ピアノ。
全部、母の期待の証。
全部、“自分のもの”のようでいて、どこか“自分じゃないもの”。

「家を探しても、仕事を探しても、
社会のこと、なにも知らなくて」

ぽつり、ぽつりとこぼれるように言葉が出てくる。

「友達には、“風呂なしアパートなんてありえない”って本気で怒られて……
不動産屋さんには、仲介手数料も敷金礼金も、
“いいからもうそれで”って感じで……」

「……よっぽど、可哀想に見えたんでしょうね」

乾いた笑いが漏れた。

「……正直、一瞬思いましたよ。
こんななら結婚して、おとなしく暮らしてた方が身のためかも、って」

湊は、少しの間だけ何かを考えるようにしていた。
でも、すぐに言った。

「何も知らなくたって、これから知っていけばいいじゃないですか」

その言葉が、まっすぐに沁みた。
けれど――

「……私も、そう思ってました」
目を伏せながら、璃子は言った。

「でも……親がいる限り、私はずっと“見えない鎖”に繋がれてるんです。
自分で歩いてるつもりでも、気づいたら引き戻されてる」

湊さんは、それを聞いて、小さく息を吐いた。

そして、静かに――けれどはっきりと、こう言った。

「……僕でよければ、その鎖を解いてあげてもいい」

璃子が顔を上げたとき、湊は――
あの、ねじれてしまったネックレスに手を伸ばしていた。

そっと、ひとつひとつの捻れを直すように。
糸のような鎖が、本来のかたちに戻っていく。

「……でも……」
何かを言おうとした、そのとき。

――ピンポーン

インターホンが鳴った。

往診の先生だろう。

璃子は言葉の続きを飲み込み、わずかに目をそらした。
まるで、戻された糸がまた張り詰めてしまいそうな、そんな気がしたから。

でもその一瞬、胸の奥に灯った小さな温度だけは、まだ消えなかった。
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