世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
往診の先生が帰ったあと、リビングにはまた静けさが戻っていた。
窓から入る午後の光が、薄く床を照らしている。

璃子のスマホが震えた。
母――由紀子からのメッセージだった。

「おばあちゃんも熱中症だったそうよ。
短期間で入院になるかもって。
しばらく帰れないから、あんたは家でゆっくり休みなさい。
あんなボロアパートに戻るんじゃないよ」

璃子は画面を見つめて、小さく息を吐いた。
強い口調の中に、母なりの“心配”が滲んでいる。
それがわかるからこそ、何も言い返せなかった。

スマホを伏せて置くと、向かいのソファに座っていた湊に、
静かに頭を下げた。

「……もう大丈夫です。
長い時間、ありがとうございました」

湊はほんの少しだけ目を細めて、穏やかに微笑んだ。

「いいえ。
久しぶりにお話しできて、僕は嬉しかったです」

そう言ったあと、彼は少し間を置いて続けた。

「……また、もし……
話したいことがあったら。
いつでも。連絡してください」

璃子は、その“純粋すぎる”優しさに胸が締めつけられた。
さりげないけれど、逃げ場のないまなざし。

「……はい。ありがとうございます」

声が揺れないように、少しだけ喉に力を込めて答える。
そうして立ち上がろうとした瞬間、湊がゆっくり立ち上がった。

「いいですよ。お見送りは……お気持ちだけで十分ですから」

そう言って、そっと璃子の頭に手を伸ばした。
ポンポン、と軽く、優しく。

その一瞬で、冷めていたはずの体温が――
まるで湧き上がるように、全身を駆け巡った。

(やめて……そのやさしさは……)

胸の奥で何かがざわつく。

それでも、璃子は平静を装いながら、
ソファに座ったまま静かに言った。

「……ありがとうございました」

扉の閉まる音がしたあとも、
璃子はしばらく立ち上がれなかった。

心の中で、何かがほどけていく音がした。
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