過去を捨て、切子の輝きに恋をする
4.
Davidがアメリカでの商談のための出張に発った翌週、真由子は蒼一郎に誘われて、ふたたび工房を訪れていた。
この日、彼女が案内されたのは、いつもの応接間ではなく、奥にある職人用の小さな打ち合わせスペースだった。
天井の低いその空間は、木の香りと研磨されたガラスの匂いが混じり合い、どこか落ち着く気配が漂っていた。
テーブルの上には、器のサンプルがいくつも並べられていた。
透明な鉢、薄紅色の角皿、淡い青の豆皿。どれもまだ未仕上げで、完成には遠いものだった。
「このあたりを、和食レストラン向けに展開できないかと考えてるんです」
蒼一郎が、豆皿をひとつ手に取った。
「こういうのに、ちょっとした前菜を載せてね。光を透かせば、料理も映える」
真由子も、ひとつ手に取る。光の中で揺れるその器に、何を乗せようかと想像する。
「……きっと、料理人の方って、“盛りつけ”というより“絵画”や“オブジェ”って感覚なんでしょうね」
「絵画ですか?」
「お皿と料理の間に、温度とか、リズムとか、何か見えないものが流れてる気がして」
その言葉に、蒼一郎が目を細めた。
「そういうの、感じる人なんですね」
「感じるだけです。形にできるかは別問題」
「でも、形にする手前に、そういう感覚があることは大事ですよ」
蒼一郎は、ガラス鉢の縁を指でなぞるようにして言った。
「僕が選ぶ器って、たぶん――強さと、繊細さが共存してるものが好きなんだと思います。
儚そうで、でも踏ん張りが利くもの」
真由子は、彼の手元の鉢に目を落とした。
その言葉が、どこか彼自身のことを語っているように聞こえた。
「……君に似てるのかもしれない」
ふいに、蒼一郎が静かに言った。
真由子は、驚いて彼の顔を見た。
だが彼は、器から視線を動かしていない。
まるで何でもないことのように、次の試作品に目を移していた。
「このシリーズの名前、何にしましょうか」
彼の声が、少しだけ低く、優しく響いた。
「“料理を描くキャンバス”とか。……ちょっと詩的すぎますか?」
「いえ、悪くないですよ」
蒼一郎が口元だけで笑った。
ガラス越しに射し込む午後の光が、ふたりの手元をゆるやかに照らしていた。
◇◇
工房を出る頃には、外の空はすっかり夕暮れに染まり始めていた。
ガラス越しに見える空の色が、さっきまで試作の器に映っていた光を思い出させる。
「このあと、少し時間ありますか」
工房の戸を閉めながら、蒼一郎が不意に言った。
真由子は軽く首を傾ける。
「ええ、大丈夫です。何か予定が?」
「うちの切子を使ってる割烹があって。歩いて五分くらいのところなんです。
実際に料理がどう映えるか、見てもらえたらと思って」
その言い方はあくまで“仕事の延長”だったが、声の調子はどこか柔らかかった。
「ぜひ、行ってみたいです」
真由子が微笑むと、蒼一郎もうなずいた。
◇◇
割烹「魚灯」は、住宅街の奥にひっそりと佇んでいた。
白木の格子戸に控えめな暖簾がかかり、ガラス越しに温かな灯りがもれている。
「ここです。小さい店ですけど、料理はかなり繊細なんです」
カウンターに案内されると、目の前に切子の酒器と前菜皿が並べられていた。
どれも見覚えのある、蒼一郎の工房で生まれた器たちだ。
だが、そこに盛られた料理が加わると、不思議と“別のもの”に見えた。
「……きれい」
思わずこぼれる真由子の声に、蒼一郎が小さく笑う。
「盛り付けって、やっぱり魔法みたいなものですね。
器だけでは成立しないし、料理だけでも足りない」
「そうなんです。ここで出されると、作った本人も驚くくらい、表情が変わるんですよ」
先附は、春野菜の白和えと鯛の昆布締め。
淡いピンクの切子皿に乗った鯛の艶と、青みの残る若芽の緑が、まるで絵のようだった。
「でも海外展開には、少しアレンジが必要かも」
蒼一郎が、切子グラスの水面を見つめながら言った。
「このままじゃ、たぶん“綺麗すぎる”んですよね。
もっと、“使いこなしたくなる雑味”みたいなものが必要かもしれない」
「それ、分かる気がします。
異国のテーブルに置かれたとき、器の“完璧さ”って、時に距離を感じさせるから」
「君の会社のブランド戦略もあるだろうし、どこに着地させるかは、話し合っていかないと」
そう言いながらも、その口調には、対等なパートナーとしての信頼がにじんでいた。
少し沈黙が流れた。
カウンター越しの職人が、次の一皿を出す。
鮮やかな切子鉢に盛られた、鰹のたたき。
蒼一郎が軽く手を伸ばし、真由子のほうに器を向ける。
「よかったら、半分どうぞ。……ちょっと多かったかもしれないから」
「ありがとうございます」
真由子も箸を伸ばす。
グラスが軽く触れ合い、澄んだ音がひとつ鳴った。
その音が消えるころには、ふたりの間の空気が、どこかやわらかく変わっていた。
◇◇
店を出ると、夜の空気がひんやりと肌をなでた。
春の終わり。夜風にはまだ冷たさが残る。
「この辺り、静かですね」
真由子がつぶやくと、蒼一郎が歩幅を合わせて言った。
「夜になると人通りが少なくて。うちの工房もそうだけど、目立たない場所ばかりです」
「目立たないけど、ちゃんと人が働いていて、暮らしていて。
そういう場所って、案外好きかもしれません」
蒼一郎が、少しだけ横を見て、笑う。
「君って……たまに、切子に似てると思うことがあるんです」
真由子は、足を止めかけてから、少し困ったように笑った。
「またそれですか。さっきも“繊細で強い”とか言ってましたよね?」
「だって、実際そうだと思うから」
「私はただの……大学出て、地味な仕事して、ようやく今の仕事に辿り着いた人間です」
「“ただの”って言える人が、自分の言葉で人を動かしたりしませんよ」
蒼一郎の声が、夜の静けさに吸い込まれるように落ち着いていた。
「プレゼンのとき、僕は――正直、驚いたんです。
あんなに強い言葉を、迷いなく話せる人だったんだなって」
真由子は、黙って前を見つめた。
駅へ続く、細い遊歩道。
街灯の下に、ふたりの影が並んで伸びていた。
「……あの言葉は、自分でも不思議でした」
「不思議?」
「今まで、そんなふうに話したこと、なかったから。
でも、伝えたいと思ったんです。あの器のことを、あの仕事を、あなたとの時間を――」
言いかけて、ふと言葉を飲み込む。
蒼一郎も、それ以上は何も言わなかった。
ただ、足を止めた真由子の歩みに合わせて、自分も静かに立ち止まった。
目の前の桜並木が、街灯の光で輪郭を浮かび上がらせていた。
もう花は散っていたが、枝先に残った若葉が、風に小さく揺れている。
「この先も、一緒に進めるといいですね。……仕事も、それ以外も」
その言葉は、まるで切子の細工のように、明確ではないのに、輪郭だけがきれいに浮かび上がっていた。
「はい。……私も、そう思ってます」
ふたりの影が、ふたたび歩き出した。
この日、彼女が案内されたのは、いつもの応接間ではなく、奥にある職人用の小さな打ち合わせスペースだった。
天井の低いその空間は、木の香りと研磨されたガラスの匂いが混じり合い、どこか落ち着く気配が漂っていた。
テーブルの上には、器のサンプルがいくつも並べられていた。
透明な鉢、薄紅色の角皿、淡い青の豆皿。どれもまだ未仕上げで、完成には遠いものだった。
「このあたりを、和食レストラン向けに展開できないかと考えてるんです」
蒼一郎が、豆皿をひとつ手に取った。
「こういうのに、ちょっとした前菜を載せてね。光を透かせば、料理も映える」
真由子も、ひとつ手に取る。光の中で揺れるその器に、何を乗せようかと想像する。
「……きっと、料理人の方って、“盛りつけ”というより“絵画”や“オブジェ”って感覚なんでしょうね」
「絵画ですか?」
「お皿と料理の間に、温度とか、リズムとか、何か見えないものが流れてる気がして」
その言葉に、蒼一郎が目を細めた。
「そういうの、感じる人なんですね」
「感じるだけです。形にできるかは別問題」
「でも、形にする手前に、そういう感覚があることは大事ですよ」
蒼一郎は、ガラス鉢の縁を指でなぞるようにして言った。
「僕が選ぶ器って、たぶん――強さと、繊細さが共存してるものが好きなんだと思います。
儚そうで、でも踏ん張りが利くもの」
真由子は、彼の手元の鉢に目を落とした。
その言葉が、どこか彼自身のことを語っているように聞こえた。
「……君に似てるのかもしれない」
ふいに、蒼一郎が静かに言った。
真由子は、驚いて彼の顔を見た。
だが彼は、器から視線を動かしていない。
まるで何でもないことのように、次の試作品に目を移していた。
「このシリーズの名前、何にしましょうか」
彼の声が、少しだけ低く、優しく響いた。
「“料理を描くキャンバス”とか。……ちょっと詩的すぎますか?」
「いえ、悪くないですよ」
蒼一郎が口元だけで笑った。
ガラス越しに射し込む午後の光が、ふたりの手元をゆるやかに照らしていた。
◇◇
工房を出る頃には、外の空はすっかり夕暮れに染まり始めていた。
ガラス越しに見える空の色が、さっきまで試作の器に映っていた光を思い出させる。
「このあと、少し時間ありますか」
工房の戸を閉めながら、蒼一郎が不意に言った。
真由子は軽く首を傾ける。
「ええ、大丈夫です。何か予定が?」
「うちの切子を使ってる割烹があって。歩いて五分くらいのところなんです。
実際に料理がどう映えるか、見てもらえたらと思って」
その言い方はあくまで“仕事の延長”だったが、声の調子はどこか柔らかかった。
「ぜひ、行ってみたいです」
真由子が微笑むと、蒼一郎もうなずいた。
◇◇
割烹「魚灯」は、住宅街の奥にひっそりと佇んでいた。
白木の格子戸に控えめな暖簾がかかり、ガラス越しに温かな灯りがもれている。
「ここです。小さい店ですけど、料理はかなり繊細なんです」
カウンターに案内されると、目の前に切子の酒器と前菜皿が並べられていた。
どれも見覚えのある、蒼一郎の工房で生まれた器たちだ。
だが、そこに盛られた料理が加わると、不思議と“別のもの”に見えた。
「……きれい」
思わずこぼれる真由子の声に、蒼一郎が小さく笑う。
「盛り付けって、やっぱり魔法みたいなものですね。
器だけでは成立しないし、料理だけでも足りない」
「そうなんです。ここで出されると、作った本人も驚くくらい、表情が変わるんですよ」
先附は、春野菜の白和えと鯛の昆布締め。
淡いピンクの切子皿に乗った鯛の艶と、青みの残る若芽の緑が、まるで絵のようだった。
「でも海外展開には、少しアレンジが必要かも」
蒼一郎が、切子グラスの水面を見つめながら言った。
「このままじゃ、たぶん“綺麗すぎる”んですよね。
もっと、“使いこなしたくなる雑味”みたいなものが必要かもしれない」
「それ、分かる気がします。
異国のテーブルに置かれたとき、器の“完璧さ”って、時に距離を感じさせるから」
「君の会社のブランド戦略もあるだろうし、どこに着地させるかは、話し合っていかないと」
そう言いながらも、その口調には、対等なパートナーとしての信頼がにじんでいた。
少し沈黙が流れた。
カウンター越しの職人が、次の一皿を出す。
鮮やかな切子鉢に盛られた、鰹のたたき。
蒼一郎が軽く手を伸ばし、真由子のほうに器を向ける。
「よかったら、半分どうぞ。……ちょっと多かったかもしれないから」
「ありがとうございます」
真由子も箸を伸ばす。
グラスが軽く触れ合い、澄んだ音がひとつ鳴った。
その音が消えるころには、ふたりの間の空気が、どこかやわらかく変わっていた。
◇◇
店を出ると、夜の空気がひんやりと肌をなでた。
春の終わり。夜風にはまだ冷たさが残る。
「この辺り、静かですね」
真由子がつぶやくと、蒼一郎が歩幅を合わせて言った。
「夜になると人通りが少なくて。うちの工房もそうだけど、目立たない場所ばかりです」
「目立たないけど、ちゃんと人が働いていて、暮らしていて。
そういう場所って、案外好きかもしれません」
蒼一郎が、少しだけ横を見て、笑う。
「君って……たまに、切子に似てると思うことがあるんです」
真由子は、足を止めかけてから、少し困ったように笑った。
「またそれですか。さっきも“繊細で強い”とか言ってましたよね?」
「だって、実際そうだと思うから」
「私はただの……大学出て、地味な仕事して、ようやく今の仕事に辿り着いた人間です」
「“ただの”って言える人が、自分の言葉で人を動かしたりしませんよ」
蒼一郎の声が、夜の静けさに吸い込まれるように落ち着いていた。
「プレゼンのとき、僕は――正直、驚いたんです。
あんなに強い言葉を、迷いなく話せる人だったんだなって」
真由子は、黙って前を見つめた。
駅へ続く、細い遊歩道。
街灯の下に、ふたりの影が並んで伸びていた。
「……あの言葉は、自分でも不思議でした」
「不思議?」
「今まで、そんなふうに話したこと、なかったから。
でも、伝えたいと思ったんです。あの器のことを、あの仕事を、あなたとの時間を――」
言いかけて、ふと言葉を飲み込む。
蒼一郎も、それ以上は何も言わなかった。
ただ、足を止めた真由子の歩みに合わせて、自分も静かに立ち止まった。
目の前の桜並木が、街灯の光で輪郭を浮かび上がらせていた。
もう花は散っていたが、枝先に残った若葉が、風に小さく揺れている。
「この先も、一緒に進めるといいですね。……仕事も、それ以外も」
その言葉は、まるで切子の細工のように、明確ではないのに、輪郭だけがきれいに浮かび上がっていた。
「はい。……私も、そう思ってます」
ふたりの影が、ふたたび歩き出した。