過去を捨て、切子の輝きに恋をする
第四章 「過去との再会と決別」

1.

 その日、真由子はオフィスのカフェスペースで、紅茶を手にしていた。

「Mayuko, did you see this?(真由子さん、これ見ました?)」
 アイラが、スマホを差し出す。

 そこには、蒼一郎のインタビュー記事が書かれたビジネス系のWebマガジンが開かれていた。

 《伝統工芸×グローバル戦略──切子で挑む、“一口ごとの芸術”プロジェクト》

 記事の中央には、倉橋硝子のショップの前に立つ真由子と蒼一郎の写真。
 切子のワイングラスを手に微笑むふたりが並んでいる。

「すごく素敵ですね、この写真」
「いえ……角度がよかっただけです」
 真由子はそう言って笑ったが、胸の奥に、静かな達成感がじんわりと灯っていた。

   ◇◇

 その数日後の午後。
 ちょうど昼休みが終わる頃、オフィスビルのエントランスで警備員が何か対応していた。

「……Yuasaさん、下のロビーにお客様が……?」
 受付から内線が入る。

 ――アポイントはなかったはず――

 不審に思いながらも、真由子がエントランスホールに降りると、そこには、あの男がいた。

 川尻明。

 スーツのジャケットは皺だらけで、髪は乱れている。
 しかし、目元だけは、以前と同じ、どこか子供のような表情をしていた。

「……やっと見つけた」
「……なんでここに」

「偶然見たんだ。ネットの記事。お前、あんなすごい会社にいたのかよ」

「どうやって入ったの?」

「入り口で“知人に連絡したい”って言っただけだよ。俺、今マジで困ってて……。
 住んでたとこ、もう出なきゃならないし、バイトもクビになって……。頼れるの、お前しかいないんだよ」

 その言葉は、かつて何度も聞いたことのある、懐かしい調子の泣き言。
 頼りなさと甘えが混じった声。

 もうそれに心を傾ける自分ではない――そう決心したはずだった。
 でも……真由子は、揺さぶられる心を振り払って、言葉を絞り出した。

「……もう、あなたを助ける理由はない」
「真由子……なあ、一度だけでいいんだ。話だけでも――」

「戻って。二度と来ないで」
 言い切ったあと、少しだけ喉が詰まった。

 明は、それ以上は何も言わなかった。
 ただ、ガラス扉の外へと、ゆっくりと歩いて消えていった。

   ◇◇

 その夜、真由子は自宅マンションのソファに座っていた。
 照明を落とし、グラスに注いだ水がテーブルのランプに透けていた。

 泣くほどのことではない。
 そう思っていた。

 けれど、喪失感と後悔とが混ざったような思いに胸が詰まり、涙があふれてきた。

 ――まだ、私の中に残ってたんだ……あの頃の、あの感情が

 私だけが彼を救ってあげられると思ったことも、抱かれたときに”愛されている”と感じたことも。
 でも、今の自分はもう、あの頃の自分には決別したはずだった。

 ソファに背中を預けて、真由子はそっと目を閉じた。

 明日の仕事のことを考える。
 新しい器の試作、次の打ち合わせ、そして――蒼一郎の顔。

 過去の影が、静かに遠ざかっていくのを、心の奥で感じていた。
< 13 / 23 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop