過去を捨て、切子の輝きに恋をする

2.

 昼すぎ、工房の打ち合わせスペースに真由子が現れたとき、蒼一郎はすでに海外向け和食器の試作品を並べていた。

「少し、早く来すぎましたか?」
「いや。ちょうど整ったところです」

 いつもと変わらない会話。けれど――蒼一郎の目には、何かが映っていた。

 真由子は、資料を開いたまま、じっと器に視線を落としている。
 何度も話し合ってきたデザイン案なのに、どこか目の焦点が合っていないように見えた。

「……何か、あったんですか」

 真由子は顔を上げる。
 驚いたように、しかしすぐに目をそらした。

「そんなに、分かりやすいですか」
「無理に話さなくてもいい。でも、誰かに話した方が楽になることもある」

 しばらく沈黙が流れた。

 窓辺の光が、切子のグラスの縁を淡く照らしていた。

「……前に付き合ってた人が、会社に来たんです」
 真由子は、ゆっくりと語り始めた。

「彼、何も変わってなかった。相変わらず、自分のことばっかりで……でも、私、少しだけ迷ったんです。
 “助けなくていい”って分かってるのに、一瞬、昔の自分が出てきてしまって……」

 それを口にして、真由子はうつむいた。
 まるで、自分自身を責めるような沈黙だった。

 蒼一郎は、何も言わずにしばらく彼女を見ていた。
 そして、穏やかな声で言った。

「過去を断ち切るのに、他人の許可はいらない。
 でも――隣で立っててくれる人は、いた方がいいと思う」

 真由子は、はっとしたように顔を上げた。
 蒼一郎の目は、まっすぐに、けれど押しつけがましさはなく、ただそこに“いてくれる”という意思だけがあった。

「……ありがとうございます」
「別に、礼を言われるようなことじゃないですよ」

 それでも彼は、テーブルの上の試作品をひとつ持ち上げた。

「この器、次の展示会用に少し手を入れようと思ってます。
 “迷い”がある時って、逆にいいものができることもあるんです」

「迷いが、いいものを……」
「ええ。そこを通らないと、本当に伝わる形にはならないから」

 真由子の指が、無意識に器の縁をなぞる。
 その動きは、どこか安心を求めるように、やさしかった。

 窓の外では、午後の光が少しずつ傾き始めていた
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