過去を捨て、切子の輝きに恋をする

3.

 展示会を一週間後に控えた午後。

 工房の一室には、切子の器が並べられていた。
 大鉢、小皿、長皿。透明、薄青、淡い墨色。
 どれもわずかに表情が異なり、しかし確かに一つの“シリーズ”としての統一感を持っていた。

「……ついに、形になりましたね」
 真由子が小さな声で言った。

 その手には、薄紅色の小鉢。底には流れるようなカットが入っていて、光を受けて内側がふわりと輝いていた。

「これは、若い職人が仕上げたんです。繊細だけど、冒険してます」
 蒼一郎が言う。

「“A Canvas for Your Culinary Mastery(料理人の技を描くキャンバス)”。いいコピーですね。料理人がこの器を見て、“何を盛ろうか”って考える余白がある」
「余白、大事ですよね」
「ええ。切子って、完成された美に見えるけど――器としての“余白”を残すのは意外と難しい」

 ふたりは並んで、完成した器たちを眺めていた。

 どれも、真由子がマーケティングの立場から提案し、蒼一郎が職人たちと共に形にしていったもの。
 ここまでの道のりが、器の表面の光の揺らぎにさえ感じられた。

「……少し前まで、こんなふうに何かを形にして、誰かに届けるなんて、思ってもいませんでした」
 真由子がつぶやく。

「そう思えたってことは、変わったってことですよ」
「そうでしょうか」

「少なくとも僕は、今の君の目を見てると――“もう過去の方には振り向かないな”って思える」

 静かな沈黙が流れた。
 蒼一郎の言葉は、まるで器の底に沈んだ水のように、深くて揺るがなかった。

「……そう、ですね」
 真由子は一つ息をついて、笑った。

「振り向くの、やめました」

   ◇◇

 その日、真由子は帰り道、工房の出口でふと振り返った。
 入り口に灯った明かりの向こうに、蒼一郎が片づけをしている姿があった。

 真由子は、そっと手を振った。
 蒼一郎は気づき、軽くうなずき返す。

 その仕草が、まるで「もう大丈夫だよ」と言ってくれているように思えた。

 夜の風が、優しく髪を揺らした。
 彼女の背中はまっすぐ前を向いていた。
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