過去を捨て、切子の輝きに恋をする

4.

 その日、真由子は展示会用の備品を届けたあと、オフィスに戻る前に近くのカフェに立ち寄った。
 秋の風が柔らかく、テラス席では落葉が舞っていた。

 スマホに着信通知があった。
 発信者の表示はない――だが、どこかで見た番号。数秒の迷いのあと、通話ボタンを押す。

「……真由子?」
 聞き覚えのある声。思わず息を呑む。

「……どうしてこの番号を」
「偶然だよ。……君の転職前の会社の名前から調べたら、営業のやつと知り合いがいて、そこ経由で――」

 少し早口の言い訳。その調子に、昔の感情が一瞬だけ頭をもたげる。けれど、すぐに打ち消した。

「用件はなに?」

「一度だけ……会えないか? 本当に、それだけでいい。
 今、俺、行き場もなくて……でも、あの記事見て、正直、ちょっと……すごいと思ったんだ」

 一瞬、電話口が静かになる。
 真由子は、深く息を吸った。

「今どこにいるの?」
「会社のビルの下。……でも、無理ならもう帰るよ」

 真由子はスマホを切り、手早く荷物をまとめて会計を済ませた。
 ゆっくりと、だが確かな足取りでビルへ向かう。

   ◇◇

 エントランスの角に、明はいた。
 風にあおられたシャツの袖が、少し汚れている。けれど、彼の目には以前のような焦りはなかった。むしろ、ただ空虚だった。

「……来てくれたんだ」
「これが最後です。二度と、私の前に現れないで」
「……っ、わかってる。だけど一言だけ……あの頃、お前がいなかったら、俺、もっとダメになってたと思う。感謝してる。……本当に」

 真由子は、その言葉を黙って聞いていた。
 そして、少しだけ顔を上げて言った。

「……私が、あの頃あなたを“支えたい”と思っていたのは、私自身が“必要とされたい”だけだったんです。
 あなたの問題じゃない。私の問題だった」

「真由子……」

「でも、もう終わり。私は、もう振り返らない。だからあなたも」

 明は何も言えなくなった。
 それが、答えだった。

 真由子は踵を返し、歩き出した。
 背中に何も感じなかった。足取りは、軽かった。

 エレベーターを待つ間、ポケットのスマホが震えた。
 画面には、蒼一郎からのメッセージ。

「器、仕上がりました。写真、見てもらえますか?」

 小さく笑みがこぼれる。
 “今”が、ちゃんと手の中にあることが、嬉しかった。

 扉が開き、真由子は中に足を踏み入れた。
 もう、過去の扉が開くことはなかった。
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