過去を捨て、切子の輝きに恋をする

4.

 出張前日の午後、港区のZenCraftオフィスに、蒼一郎が現れた。
 受付を通り抜け、会議室のドアを軽くノックする。

「倉橋さん、どうも。いらっしゃい」
 真由子が立ち上がる。

「出発前に、ひとことだけお礼とご挨拶をと思って」
「わざわざ、ありがとうございます」

 テーブルの上には、最終チェックの資料や、通訳用のメモ、展示会会場のレイアウト案が広がっていた。
 その端に、アイラがコーヒーカップ片手に腰かけている。

「Hi, Soichiro. Ready to let your masterpiece travel overseas?(あなたの傑作、海を渡る準備は万端?)」
「できる限りね。あとは頼みます」
 蒼一郎が軽く笑うと、アイラはウインクしてカップを掲げた。

   ◇◇

 アイラが席を外したタイミングで、蒼一郎は少しだけ声を落とした。

「……展示会、きっと成功します。君がこの数ヶ月、どれだけ本気で向き合ってきたか、見てきたから」

 真由子は少し戸惑ったように、それでも穏やかにうなずいた。

「ありがとうございます。……正直、少し緊張してます」
「いいと思いますよ、緊張してるほうが。無理に完璧じゃなくていい。
 でも、ひとつだけ――」

 蒼一郎はほんの一瞬、目線を真由子から外し、それから静かに言った。

「……遠くに行っても、ちゃんと帰ってきてください」
「……え?」
「いや、比喩じゃなくて。アメリカ行っても、そのまま“遠くへ行ってしまった”ってならないように、って」

 それは冗談のような、でも冗談で済ませられない響きを持っていた。

 真由子は、ゆっくりと息を吸った。

「帰ってきます。ちゃんと」
「なら、安心です」

 蒼一郎は、いつもの調子で軽く頭を下げた。
「また報告、楽しみにしてます」

「……はい」

 ドアが閉まる直前、真由子が呼び止めた。

「倉橋さん」
「はい?」
「……お土産、期待しててください」
「ああ、それは楽しみだ」

 ふたりの間に、小さな笑いが生まれた。

 その余韻を胸に、蒼一郎は去っていった。
 真由子は背筋を伸ばして、デスクに戻る。
 旅立ちはもうすぐそこだった――でも、その背中を見ている誰かがいる。それだけで、強くなれる気がした。

   ◇◇

 展示会の初日。
 NYのジャヴィッツ・センターには、朝からバイヤー、デザイナー、シェフ、メディア関係者が詰めかけていた。

 ZenCraft Internationalのブースは、和の静けさと現代的なミニマリズムが融合したデザイン。
 そこに並ぶ切子の酒器と和食器は、米国市場向けに選ばれたラインナップ。グラス、前菜皿、醤油皿、小鉢……いずれも薄い色彩と精緻なカットで、実用性と芸術性の両立を訴える。

 真由子は、現地の午前11時ちょうど、ステージに立った。

 英語でのプレゼン。目の前には数十人の来場者。中には著名な料理人や高級百貨店のバイヤーの姿も見える。

「Good morning, everyone. Thank you for visiting our booth today.
 I’m Mayuko Yuasa, product director of this collection.」

 少しだけ、深呼吸。

「We believe that glassware is not just a tool for serving.
 It’s a canvas—for chefs to express their passion, their philosophy, their artistry.
 That’s why we say: “A Canvas for Your Culinary Mastery.”
 (私たちは、ガラス食器は単なる盛り付けの道具ではないと信じています。
 シェフが情熱や哲学、芸術性を表現するためのキャンバスなのです。
 それが私たちのコンセプト「料理人の技を描くキャンバス」です)」

 背後のスクリーンには、和食が盛り付けられた切子の器の写真が映し出されている。
 日本料理だけでなく、ニューヨークの現地フュージョンにも合うよう工夫されたスタイリング。

「Each piece is handcrafted by artisans in Tokyo, blending tradition with modern sensibilities.
 This line was developed in collaboration with young craftsmen and chefs—to create tableware that truly inspires creativity.
 (伝統とモダンな感覚を融合させて、東京の職人がひとつひとつ手作業で仕上げています。
 このコレクションは、若手職人やシェフとのコラボレーションによって開発されました)」

 拍手が湧く。短く、でも確かな手応え。

   ◇◇

 プレゼン終了後、真由子はブース内のスタッフスペースに戻った。
 そこでは、アイラがすでに数人の来場者に対応していた。

「Hi, thank you for waiting. This is our sake tasting set, made with…”
「These pieces have different optical depths, which reflect the liquid beautifully under warm light…”

 英語が滑らかで、対応も手際がいい。
 真由子がそっと近づくと、アイラが軽く目配せをした。

「Good job. They loved your speech(よかったわ。みんな、あなたのスピーチを気に入ったみたい)」
「Thanks. You’re amazing out here(ありがとう。あなたの働きもすばらしいわ)」
「Well, you were amazing up there. Let’s just say we’re even(ほんと、さっきのあなたは素晴らしかったわ。これでおあいこね)」

 ふたりは笑い合い、すぐに次の接客に移る。

   ◇◇

 その日の夕方、ブースの一角で、ある高級ホテルのF&Bディレクターが器を手に取った。

「I can almost feel the silence in this design. It’s… calming. Minimal, but soulful.(このデザインには、静けさが感じられるよ。なんというか…落ち着く。シンプルだけど、心が宿っている)」
「That's exactly what we wanted to convey. Would you like to schedule a private appointment later today?(まさに、それが私たちの伝えたかったことです。今日の後半に、個別でご案内の時間をお取りしましょうか?)」
 アイラが即座に対応する。

 真由子はそのやり取りを見守りながら、ふとスマホのロック画面を見た。
 そこには、出発前の朝に撮った、蒼一郎が工房で器を包んでいる写真。

 ――ちゃんと、届けてるからね。

 心の中で、そう呟いた。
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