過去を捨て、切子の輝きに恋をする

4.

 オフィスビルのエントランスに立った瞬間、真由子は深呼吸をした。
 ここは、ZenCraft International――海外に日本の伝統を売る商社。
 前職よりも年収は上がったし、社長秘書としての役割には裁量も責任もある。
 だが、今はただ、進みたい気持ちの方がずっと強かった。

  ◇◇

「早速だけど、会社訪問に同行してくれ。江戸切子の老舗だ。海外向けに製品をプロモーションしようとしてる」

「はい」

 ――外資系の中途って、本当に即戦力が前提なんだな。

   ◇◇

 朝の光の中、タクシーは、情緒ある路地の突き当たりで止まった。
 木製の開き戸の前に、淡い影が立っていた。

 モダンに仕立てられた紺色の作務衣。背筋がすっと伸びた立ち姿。
 光の加減で、顔立ちの凛々しさが一瞬くっきりと浮かび上がる。

「倉橋です。お待ちしておりました」
 同い年くらい、だろうか。でも、背負っているものの重さが、声ににじんでいるようだった。

「I appreciate the opportunity to speak with you.(お話できる機会をありがとうございます)」
 Davidが軽やかに英語で返し、握手を交わす。

「秘書の湯浅です。よろしくお願いいたします」
 真由子は一礼しながら言ったが、視線がほんの一瞬、彼の目に吸い寄せられる。

 ――社長にしては、若い。けれど、それ以上に……

 何か、空気を動かすような存在感があった。

   ◇◇

 応接間に通され、Davidが切子ビジネスの構想を語り始める。
 真由子は通訳として会話を繋いでいたが、ところどころで意見を求められる。

「日本酒の購買層は、日本食文化に惹かれる富裕層や、希少性に価値を見出す層が中心だ。切子もその延長線に置けるはずだ」
「なるほど。確かに、そうした顧客は“体験”そのものを買っていますからね」
 倉橋が頷きながら言う。

 真由子は一呼吸置いて口を開いた。

「……やはり、お酒の場を彩るものとしては、実用性と“特別感”をどう両立させるかが鍵かと思います」

 倉橋の目が、ふと彼女に向いた。

 驚いたような、探るような――それでいて、どこか楽しんでいるような目だった。

   ◇◇

 訪問が終わり、タクシーに乗り込む直前。
 Davidがふと笑みを浮かべて言った。

「Nicely done. Especially for your debut.
 But next time, I want to hear more from you.(よくやった。初回にしては上出来だ。でも次からは、もっと“君の声”を聞かせてほしい)」

「はい。ありがとうございます」
 真由子は頭を下げた。

 窓越しに、まだ倉橋が玄関先に立っているのが見えた。
 見送っているのか、ただ考え事をしているのかはわからない。

 けれど、目が合ったその瞬間――なぜか、すこしだけ、胸の奥が疼くのを感じた。
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