過去を捨て、切子の輝きに恋をする

3.

 港区のオフィスビル、ガラス張りの会議室に陽が差し込む。
 テーブルの中央には、数種類の江戸切子のグラスと、企画資料が並べられていた。

 真由子は、その資料の一枚に目を落としながら、ゆっくりと口を開いた。

「今回のキャンペーンでは、このキャッチコピーを軸にしたいと考えています」

 ホワイトボードに貼られた一枚の紙には、こう書かれていた。

 A Work of Art in Every Sip
 ――一口ごとに、芸術を味わう。

「これは、私たちが今、提案しようとしている“切子のワイングラス”の価値そのものを表しています」
 隣に座っていたアイラが補足するように続ける。

「伝統的な技術と現代的なデザイン、その融合がこの言葉に集約されています。日常の中で、芸術に触れられるというコンセプトです」

 一瞬、静けさが落ちた。
 そして、その沈黙を破ったのは、倉橋蒼一郎だった。

「いいコピーだと思います。ただ――その一言で、誰に、何を届けたいんですか?」

 その声は穏やかだったが、真剣だった。
 会議室の空気がすっと引き締まる。

 真由子は一呼吸置いて、倉橋を見た。
 その目の奥に、言葉の本質を測ろうとするまなざしがあった。

「たとえば、誰かの特別な時間のために、贈りたくなるような。
 あるいは、自分の“今日”を祝いたくなるような、そんな“一点物感”を届けたいと思っています。
 単なる酒器ではなく、“物語をまとった器”として」

 その言葉に、倉橋の目がわずかに細くなった。
 真由子の声が本心から出ていることを、彼は察したのかもしれない。

「――実は、若手の職人たちに、フリーでいくつか試作をさせていたものがあります」
 倉橋はそう言って、静かに手元の布をめくった。

 そこには、4脚のグラスが並んでいた。
 従来の江戸切子では珍しい曲線的なカット、斬新な色使い、けれどどこか“日本らしさ”が残っている。

「まだ社内でも賛否があります。でも、“今の感覚”を形にしようと思って」

 真由子は、思わず手を伸ばして、そのひとつをそっと持ち上げた。
 グラスの底に、光が集まっているようだった。まるで、小さな宇宙を覗き込むような感覚。

「……これ、素敵ですね。ワインを注ぐと、もっと映えそう」

「赤か白かによって、見え方も変わります。でも実は、日本酒の純米吟醸なんかを入れても、透過光がとても綺麗なんです」
 倉橋の声が、ほんのわずかに楽しげに響く。

「海外では、日本酒をワイングラスで出す店も増えてますしね」
 と真由子が続けると、Davidがうなずいた。

「Exactly. だから切子と日本酒の融合は、僕らにとっては“自然な次の一手”なんだ」

「切子のワイングラスで飲むと“日本酒は特別な体験”って訴求ができますね。見た目の美しさで、飲み方も変わっていく」

「日本酒を飲むこと自体が、ちょっとした“儀式”になるようにしたいんです」
 倉橋が言った。

 真由子は、その言葉に静かに頷いた。
 それはただの“飲み物”ではなく、“物語を注ぐ器”としての視点だった。
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