過去を捨て、切子の輝きに恋をする
第三章 「一口ごとに芸術を」

1.

 午後の工房は、硝子を研磨する機械音と、ガラス片のきらめきに満ちていた。
 空気はひんやりとしているのに、どこか張り詰めていて、立っているだけで背筋が伸びる。

 真由子は、白い作業服の男性たちに囲まれながら、蒼一郎の隣に立っていた。

「このラインを、あとほんの少しだけ深く――そう、そこ」
 蒼一郎が若手職人に細かく指示を出す。若い職人はうなずきながら、慎重にダイヤ砥石を動かした。

 ひと区切りついたところで、年配の職人がふっと真由子を見た。

「珍しいね、あんたみたいな人が、こっちの世界に顔出すなんて」

「……私みたいな?」

「綺麗で、言葉もちゃんとしてて、よそ行きの服着て。こういう工房には滅多に来ない人種だよ」

 皮肉とも冗談ともつかない言葉だったが、真由子は笑って受け流した。

「確かに、今日が初めてです。でも、きっとまた来ます」

「ほう」

「まだ、ガラスがどうやって“作品”になるのか、よく分かっていませんから。ちゃんと、見て知りたいんです。言葉で伝えるためにも」

 職人は数秒黙っていたが、やがて小さく鼻を鳴らした。

「まあ、来る気があるなら、止めやしないよ」

 その言葉に、蒼一郎がわずかに目を細めた。
 彼にとっても、それは“許可”に近いものだった。

   ◇◇

 その夜。
 訪問を終えた帰り道、ふたりは駅前の古びた蕎麦屋に入った。
 飾り気のない暖簾をくぐり、木のカウンター席に並んで座る。

 ビジネスミーティングの延長という名目だったが、店の空気はどこか緩やかだった。

 蒼一郎が頼んだ冷酒が、小ぶりなグラスに注がれる。
 そのグラスもまた、切子だった。

「この店、うちの職人が卸してるんです」
 蒼一郎がぽつりと説明する。

「さっきの職人さん……少し怖いかと思ったけど、実は優しいんですね」

「あの人が“まあ、来てもいい”なんて言うの、初めて見ましたよ」
 蒼一郎がわずかに笑った。
「君が、ちゃんと自分の言葉で話したからだと思う」

 真由子は、目の前の蕎麦茶の湯気を見つめながら言った。

「大学を出て、普通の会社に入って……いつの間にか、正解ばかり気にしてた気がします。
 でも最近、“答えがないこと”を考えるのも悪くないなって」

 蒼一郎は何も言わなかったが、グラスを手に取り、傾けた。

「僕も、昔はそうでした」
 言葉の調子が変わる。

「親父のやり方を継いでいればいいと思っていた。でもある日、“全部、ただの模倣だ”って言われて。
 そのとき初めて、自分で“考えることの価値”に気づいたんです」

 少しの沈黙。

「継ぐって、想像以上に孤独ですね」
 真由子の言葉に、蒼一郎の手が止まる。

「そう思ってくれる人、初めてかもしれない」
 そう呟いて、少しだけ目を伏せる。

「私も、家族にはいろいろ期待されました。……でも、全部がいいことじゃなかったなって、今なら思います」

「期待されるのは、しんどいですよね」

「ええ。期待に応えようとする私と、本当の私は違う……」

 二人の言葉は、夜の静けさに吸い込まれるように、ゆっくりと重なった。

 グラスの底に残った冷酒が、微かに光を反射していた。
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