触れてはいけない距離

忘れられない輪郭

***

 玄関の扉が閉まる乾いた音。その瞬間、綾乃はそっとため息を吐いた。
足早に会社へ向かって行った崇の背中に「いってらっしゃい」と呟いた声は、空気の中にふわりと消えていく。それが届いたかどうかさえ、もう確かめる気力はない。

 静まり返ったリビングに、時計の針の音がカチカチと無機質に響く。

 テーブルの上に置かれたマグカップの中のコーヒーは、まだ湯気を立てている。けれどそのあたたかさすら、今の綾乃にはどこか遠いものに思えた。

 手早くエプロンを身に着け、飲みかけのコーヒーを流しに捨てる。マグカップをすすぐ水音の中で、崇が出がけに言い残した言葉を思い出した。

「今日の午後には、湊が来るから」

 そのひとことに、綾乃の胸の奥でなにかが小さく波打ったのは、気のせいだろうか。
 
 廊下を突き進み、北側にある客間のドアを開ける。普段は使われることのないその一室に、梅雨の光が柔らかく差し込んでいた。カーテンを勢いよく開けて、窓をわずかに開く。

 しっとりとした雨の匂いが鼻をくすぐり、室内の空気が静かに蠢く。

 綾乃はベッドカバーを手に取り、布団を整えながら、思わず湊の顔を思い出した。

 三年前の春、大学を卒業して海外に行く直前、ふらりと家に顔を出したときの湊。あの頃はまだ無邪気で、どこか危なっかしい青年だった。けれど笑ったときのあの目だけは妙にまっすぐで、じっと見つめられると胸の奥にざわめくあの感覚を、綾乃は今でも覚えている。

『義姉さん、昔より綺麗になったね』

 あの日、そう言って嬉しげに笑ったあの声。不意に告げられた言葉は冗談めいていたハズなのに、天真爛漫な笑顔で告げられた声が、今でも耳の奥に残ってる。

「……馬鹿みたい」

 綾乃は小さく首を振って、ベッドのシーツを整える手を止めた。ただの義弟。血のつながらない家族の一人。そう思い込んできた。

 ――なのに、どうして。

 記憶の中の湊は、どうしても”家族”には見えなかった。あの視線もあのほほ笑みも、まるでどこか別の感情を隠しているような気がして。

「……これ以上は、駄目」

 誰に向けたわけでもないその言葉が、雨音に溶けていく。それでも胸の奥には、ずっと触れてこなかった感情が、ゆっくりと動きはじめていた。
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