触れてはいけない距離
それでも、名を呼びたかった
――自分は、なにをしているんだろう。
リビングのほうから、微かに人の気配がする。扉の向こう側には、きっとそこに彼女がいる。綾乃さんが。
でも、もう見てはいけない。あの視線も揺れる瞳も、名前を呼ぶあの声も――すべてが危うすぎる。
(わかってる。越えちゃいけないんだ――)
この家で、自分が口にしてはいけない言葉がある。触れてはいけない距離がある。それは彼女が兄の妻であるという事実だけじゃない。
彼女がその優しさで、“居場所”をくれたという恩すらも――簡単に裏切ってしまいそうで。
けれど。
(――それでも、名を呼びたかった)
朝、笑顔でパンを出してくれたあの手元、僅かに震えていた。小さくほんの少し。気づかないふりをした。でも本当は、見ないようにしていただけだった。
あの揺れは、自分に向けられたものだとしたら。あの震えが、自分の存在によるものだとしたら。
(だったら俺は、どうすればよかった?)
引くことが、正しさだとわかっている。けれど、なにも言わずに背中を向けることが、本当に彼女を守ることになるのか。
この冷たい家の中で、彼女を一人きりにして――本当によかったのか。
「……っ」
扉に手をかけたまま、息をつめる。もしかしたら、リビングから誰かが出てくるかもしれない。名前を呼ばれるかもしれない。
「行かないで」と――ただそれだけを願っている自分がいた。
でも、誰の足音も聞こえない。綾乃の声は届かない。
……そうだ、それでいい。それが、正しい。
客間に戻り、窓を開ける。湿り気のある夜の冷たい風が一気に入り込み、頬を撫でていった。背中のほうには、あたたかな場所がある。けれど、その場所に自分の居場所は――たぶん、ない。
だから今はただ、こうして扉を閉じるしかなかった。
けれど、心の奥でずっと叫んでいる。
――あの日のように、もう一度だけでいい。名を呼んでくれたら、それだけで救われたのに。
リビングのほうから、微かに人の気配がする。扉の向こう側には、きっとそこに彼女がいる。綾乃さんが。
でも、もう見てはいけない。あの視線も揺れる瞳も、名前を呼ぶあの声も――すべてが危うすぎる。
(わかってる。越えちゃいけないんだ――)
この家で、自分が口にしてはいけない言葉がある。触れてはいけない距離がある。それは彼女が兄の妻であるという事実だけじゃない。
彼女がその優しさで、“居場所”をくれたという恩すらも――簡単に裏切ってしまいそうで。
けれど。
(――それでも、名を呼びたかった)
朝、笑顔でパンを出してくれたあの手元、僅かに震えていた。小さくほんの少し。気づかないふりをした。でも本当は、見ないようにしていただけだった。
あの揺れは、自分に向けられたものだとしたら。あの震えが、自分の存在によるものだとしたら。
(だったら俺は、どうすればよかった?)
引くことが、正しさだとわかっている。けれど、なにも言わずに背中を向けることが、本当に彼女を守ることになるのか。
この冷たい家の中で、彼女を一人きりにして――本当によかったのか。
「……っ」
扉に手をかけたまま、息をつめる。もしかしたら、リビングから誰かが出てくるかもしれない。名前を呼ばれるかもしれない。
「行かないで」と――ただそれだけを願っている自分がいた。
でも、誰の足音も聞こえない。綾乃の声は届かない。
……そうだ、それでいい。それが、正しい。
客間に戻り、窓を開ける。湿り気のある夜の冷たい風が一気に入り込み、頬を撫でていった。背中のほうには、あたたかな場所がある。けれど、その場所に自分の居場所は――たぶん、ない。
だから今はただ、こうして扉を閉じるしかなかった。
けれど、心の奥でずっと叫んでいる。
――あの日のように、もう一度だけでいい。名を呼んでくれたら、それだけで救われたのに。