触れてはいけない距離

名を呼べなかった夜

 玄関の扉が、静かに軋む音がした。振り返らなくてもわかる。湊が出て行こうとしている。

(……今日も、声をかけられなかった)

 リビングの隅で、毛布を抱えたままソファに沈む。テレビの電源はついているのに、映像の内容はまったく頭に入ってこない。耳が、感覚のすべてを玄関の音に向けてしまっていた。

 湊が、なにかを迷っている気配がする。ドアの前でほんの一拍。長い沈黙があった。

 もしかしたら――振り返ってくれるかもしれない。もしかしたら――名前を呼んでくれるかもしれない。

 そんな期待が、胸の奥で密かに揺れる。なのに、呼び止めることができなかった。

(「行かないで」って……言えたら、変わってたのかな)

 そんな言葉を飲み込んでしまうのは、きっと“正しさ”のせい。妻であるという立場、義姉であるという常識、そしてまだ、どこかで崇の名を“夫”として呼べずにいる、情けない自分のせい。

 扉が閉じられる音がした。その瞬間、胸の奥にぽっかりと穴があいたような気がした。

 寒いわけじゃないのに、毛布をさらに強く引き寄せる。触れることも、声をかけることもできなかった罪悪感が、心に静かに積もっていく。

(湊くん……気づいてたよね、わたしが起きてるの)

 眠ったふりをしたのは自分の弱さ。そこから逃げたのは自分。でもあの足音が遠ざかっていくたびに、涙がこぼれそうになるのはどうしてだろう。

(名前を呼べなかった。あのとき、ただ一言……言えなかった)

 後悔だけが、部屋の中に残る。まるで、湊がいたことでかろうじて保たれていた空気が、なにかの拍子に“壊れ始めた”ように感じた。

 その夜、綾乃は一睡もできなかった。
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