触れてはいけない距離

沈黙に揺れる輪郭

 家に帰ると、ダイニングの照明が消えていた。まだ二十二時前。いつもなら綾乃は、リビングでテレビを流している時間だ。

(……もう寝たのか)

 そう思いながら足を進めると、食卓に朝の食器が片づけられ、ただひとつ、マグカップが伏せられていない。中は空。温もりの残る底。それ自体は些細なのに、崇の胸に引っかかった。

 少しだけ視線を巡らせる。リビングのソファ。掛けられた毛布。微かに残る香り。

(……昨夜、湊は帰らなかった)

 それは知っていた。今朝、自室を出たときにはもう湊の姿があったから。

 まるで“どこにも行かなかった”ような顔で、いつもと同じように新聞を広げていた。

 綾乃も、いつも通り朝食を並べていた。声も表情も、変わらなかった。

 ――けれど、違和感はあった。

 湊に向けた一瞬の沈黙。目を逸らす綾乃の仕草。湊の言葉に、彼女の指先が小さく震えた。

(なんだ……あれは)

 その光景を、頭の中で何度も繰り返す。綾乃は、決して感情を表に出す人間ではない。だが、あのときの沈黙には、確かな色がついていた。

 湊に、なにかを見ていた。それは、崇ではない“なにか”――。

「……」

 シャツのボタンを外しながら、寝室のドアを開ける。誰もいない。整然とした部屋に、冷たい空気が漂う。枕元の写真立てには、結婚当初に撮ったふたりの写真がまだ置かれていた。

 それを、崇はそっと伏せた。

(……くだらない)

 そう言い聞かせる。ただの思い過ごし。疲れがそう見せただけ。なにも、変わっていない――はずだ。

 ――そう信じて、目を閉じる。

 けれど胸の奥のどこかが、静かにざわめいていた。名前を呼ばれた記憶も、手を取られたぬくもりも、ずっと昔の話のように思えるほど遠くて。

 誰かに奪われたとは、認めたくなかった。それでもなにかが動き出した予感が、胸の奥で静かに響く。
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