触れてはいけない距離

朝が来ることが、怖かった

 窓の外が白み始める。綾乃は一睡もできなかった。毛布にくるまったまま目を閉じることもできず、夜の重さが胸に残る。

 小さく伸びをして立ち上がると、キッチンへと向かう。湊はまだ寝息を立てていた。ソファに寝転んだまま、湊の呼吸が静かに響く。昨夜のことは、なかったかのような寝顔。それが、どうしようもなく愛おしかった。

 なのに背徳の痛みが胸を刺す。

 パンが焦げる匂い、卵がジュウと焼ける音、コーヒーの湯気。いつもの朝のはず。それだけで、なにかが終わる予感がした。

「……起きた?」

 気配に気づいて振り向くと、湊が髪をくしゃりと撫でながら、リビングのドアに立っていた。まっすぐ綾乃を見て――けれどその目は、どこか遠くを見ているようだった。

「ごめん、支度しなきゃって思ってたんだけど……」

 そう言って、彼はテーブルの前を通り過ぎる。食事を前にして、座らなかった。

「今日は……早く出るんだ。ちょっと、考えたいこともあって」

 たったそれだけ。いつもの笑顔はなかった。でも怒っているわけでも、冷たいわけでもなかった。

 ただ、“距離”を置くときの表情だった。

「……朝ごはん、いる?」

 声が僅かに震え、手元が小さく揺れた。この質問が、なぜこんなに怖いのか。

「ありがとう。でも、今日はいい」

  湊は小さく笑い、綾乃の前をそっとすり抜けて玄関へ向かった。扉が音もなく閉まる。部屋に残された湯気が、虚しく立ちのぼる。

(“行かないで”なんて、言えなかった)

 口に出せなかったのは、恐れていたから。言葉にしなければ、この関係は“未遂”のままでいられる。触れれば、すべてが壊れる。

 でも――。

 ひとり分だけ食卓に残った皿と、もうひとつ用意してしまったマグカップを見つめながら、綾乃は初めてはっきりと理解した。

(わたし、選ばなきゃいけないんだ……)

 なにを守りたくて、なにを求めているのか。

 湊が去ったことで、彼の存在の重みが――静かに、残響のように綾乃の心に鳴り続ける。 朝の光が差し込む部屋で、選ばなければならない未来が、静かに待っていた。
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