触れてはいけない距離

名を呼ぶ声のない部屋で

 朝のリビングは奇妙に広い。家具もテーブルの食器も、昨日と変わらない。なのに空気が薄い。

(湊くん……いない)

  気づいた瞬間、胸に冷たい水が落ちる。

 ああ、そうか。昨夜、彼が使っている客室のドアは閉じられたままだった。物音ひとつ聞こえなかったのは、もうそこにいなかったからだ。

 それなのに朝になればまた、ソファに座っている気がした。いつものように新聞を広げて、「おはようございます」と笑って。そんなふうに――また、いつもみたいに。

(……違う。いないのは当然のこと――)

 自分でそう思ったはずなのに、胸の奥が妙にざわついた。湊がいないだけで、家の温度が一段階下がったようだった。

 彼がなにか特別なことをしていたわけじゃない。ただ視線の先に人がいて、言葉があって、ぬるい沈黙にすら優しさが混じっていた。

 それが、今日はない。

「……いってらっしゃい、崇さん」

 声が小さく震える。崇はスーツの袖を整え、淡々と玄関へ向かう。綾乃の言葉に振り返りもせず、ただ「行ってくる」とだけ返してドアを閉める。

 残された部屋は静かすぎた。窓の外の鳥の声さえ、遠く聞こえる。

(……どうして、こんなに苦しいんだろう?)

 綾乃はキッチンに戻り、温もりの残るカップを両手で握ると、胸が締めつけられた。

 この場所に彼がいない――ただそれだけのことなのに、なぜこんなにも空っぽな気持ちになるのだろう。

 頭では理解している。いけないことだとわかっている。それでも心が追いつかない。彼の気配がないことが、こんなにも不安になるなんて、想像すらしていなかった。

 ソファに目をやる。あの位置に腰かけて、彼はいつもさりげない言葉を投げかけてくれた。

 ――「義姉さん、今日もパン美味しいですね」
 ――「朝からちゃんと食べるの、偉いですよ」

 たったそれだけのことが、なぜこんなにも愛おしく思えてしまうのか。

「……帰ってくる、のかな」

 つぶやきは、空気に溶けて消える。返事はもちろん、ない。けれど、その“ない”という現実が、綾乃には堪えた。

 ――会いたい。声を聞きたい。でも、それは自分の立場が許さない感情。

 触れてはいけない。求めてはいけない。それなのに――誰かがいてくれることで支えられていた心が、音もなく崩れていく。
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