触れてはいけない距離

触れそうな夜

 夜になっても、湊からの連絡はなかった。

 リビングの照明を落とす。ぬるい紅茶のカップを見つめ、綾乃は何度目かのため息を吐く。スマートフォンは手元に置いたまま、まるでそれが自分の心を映すように沈黙を保っている。

 着信も通知も、なにもない。

(……連絡すれば、いいだけなのに)

 今日だけで、何度そう思っただろう。

「おつかれさま」とか「今夜は寒いね」とか、ただそれだけの、なんでもない言葉ならいくらでもあるのに。それすら、指先にのぼらない。

 画面を点けると、最後のやり取りが目に飛び込んできた。それは、ほんの数日前。たった一言の返信だったのに、綾乃はそのやりとりを、何度も何度も見返した。

(もう、戻ってこないのかな……)

 そう思った瞬間、胸の奥がずしりと重くなる。

 勝手だ。わかっている。妻として、こんなふうに義弟の存在を求めてしまう自分は、間違っていると何度も言い聞かせた。

 けれど――。

 湊のいない家は冷たい。崇の足音も声もない。窓の外の闇が、静かに広がる。

 綾乃はスマートフォンを持ち直し、ラインのアプリを開いた。

 湊のアイコンが、指先のすぐ下にある。ほんの少し動かせば、メッセージは送れる。今すぐにでも。

(……ダメ、だよね)

 それでも、画面を見つめたまま手は動かない。“送ってしまえば戻れない”――そんな予感が、喉元までこみ上げてくる。

 それでも、誰かに「ここにいていいよ」と言ってほしかった。存在しているだけで、誰かに認められるあの温度を、たった一言の返信でもう一度確かめたかった。

 けれど。

 そうして彼を求めることが、彼を苦しめることになるかもしれないと思うと――。

「……ずるいね、わたし」

 小さく震える声が、静かな部屋に消える。

 綾乃はスマホの画面を閉じた。今夜はまだ、呼んではいけない。そう思い込むことで、かろうじて心を保つ。崩れないように。
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