触れてはいけない距離

片付いた場所に残ったもの

 薄暗いリビングで綾乃が俯いている姿に、崇は躊躇する。だが、静寂を破ることにした。

「湊は……出て行ったよ。たぶん、戻らない」

 綾乃の肩が小さく震えるのを見て、崇の胸にヒビが入る。彼女が求めていたのは自分ではない――わかっていたのに、目を背けてきた。

 けれどこのまま失うのが怖くて、やっと告げる。

「君が欲しいのは、俺じゃないかもしれない。でも……君を失うのが怖い。まだ間に合うなら、もう一度やり直したい」

 崇の言葉は、綾乃の予想と違っていた。怒りでも責めでもなく、ただ、ひとりの男としての“弱さ”だった。

――それは、綾乃がずっと欲しかった“対等さ”だった。

 湊に惹かれたのは、ぬくもりがあったから。けれど、それを一時の逃避ではなく、本当に変わっていけるかどうか――。

「私も……ちゃんと向き合いたい。崇さんと、また」

 そう呟いた綾乃の指先が、差し出されたまま止まっている、崇の手をそっと取る――。

 その手はいつも通りの体温だった。だけど、初めてそこに“弱さ”を感じた気がした。

 今まで、彼はなにも言わなかった。いつも冷静で、感情を表に出さない人だったから、自分も自然と距離を取った。でも――本当は、違ったのかもしれない。

「……ずるいよ」

 小さな声が思わずこぼれる。けれどそれは、責めるためじゃない。ただ、自分の中にある戸惑いと痛みの吐露だった。

「今になって、そんなふうに言われたら……」

 何度も「ひとり」だと思った。見てくれない、気づいてくれない。そうやって、湊に揺れた。けれどいま目の前にいる崇は、目を逸らさずに向き合おうとしている。

「私は、崇さんのこと……ちゃんと好きだった。ずっと。でも、わからなくなって、どうしたらいいか……」

 言葉が途中で震えた。喉の奥が熱くなる。呼吸が苦しい。なのに――それでも綾乃は手を伸ばした。

 崇の指先に、自分の手が重なる。そこには微かな震えがあった。それが、ようやく見つけた「ふたりの温度」だった。

 許されたわけじゃない。許したわけでもない。でも、どこかでずっと望んでいた“再スタート”が、ここから始まる気がした。

 目を閉じると、湊の笑顔が浮かぶ。だが、それはもう痛みではない。ただ、心のどこかに残る風のような記憶。通り過ぎた温かな季節。

 崇の胸に、そっと額を預ける。鼓動が近い。温かいその音を、綾乃は知りたいと思った。

「……一緒に、生きていきたい」

 その言葉は、綾乃が初めて自分の意思で選んだ決意だった。湊の記憶は、風のように遠ざかる。

 崇の鼓動に額を預け、綾乃は真新しい朝を信じた。
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