触れてはいけない距離

エピローグ

 風が冷たくなった頃、湊は静かに街を離れた。朝の空気が頬を刺す。

 なにかが終わったわけじゃない。だがもう戻らないと、わかっていた。

 勤め先に近い場所に部屋を借り、新しい生活を始めた。ほんのりと朝焼けが差し込むとき、あの家の光景がふっと浮かぶ。

 食卓に並ぶ三人分の朝食。綾乃が差し出してくれた湯気の立つ紅茶。
 そして――交わるはずのなかった、あの一瞬のまなざし。

(……ちゃんと、選んだんだな)

 噂を聞いた。兄と綾乃が、ゆっくり関係を修復していること。以前よりも夫婦らしく過ごしているらしい。誰からでもなく、風のように伝わってきたその報せに、湊はどこかで安心していた。

 いや、本音を言えば悔しい。もう少し早ければ。あと一歩、踏み出していれば。だが彼女に触れなかった。それが湊の愛だった。それは苦しくて脆い愛。

 だから、これでいい。自分が選ばれなかったとしても。彼女が笑える場所に、たどり着いたのなら。

「…………綾乃さん、じゃないな。もう」

 その呼び名も、いつか記憶の奥に沈んでいく。けれど湊はあの冬の朝、自分の名を呼んだあの声だけは、今もはっきりと覚えている。それは、自分が誰かに必要とされた証だった。胸に刻まれた確かな記憶。失ったものは大きい。けれど、得たものもきっとある。

 それは誰かを本気で想ってしまったという、ただそれだけのこと。

 そんな恋があったことを、自分だけは忘れない。

最後は後日譚で締めます、続きをどうぞ!
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