触れてはいけない距離

さよならの余白に

 封筒に宛名を書きながら、指先が震えて止まった。「綾乃さんへ」と書くだけで、こんなにも胸が痛いのはまだどこかで、彼女に呼ばれたいと願ってしまうからだ。

 ――もう、戻らないのに。

 彼女と交わした会話の一つ一つが、時間の奥で刺すように反響する。

 朝食を並べる小さな手の動き。焼きたてのパンの香り。何気なく交わされた「おはよう」にさえ、愛しさが宿っていた。

 それが、“あの家”だった。

(でも、それを壊しちゃいけなかったんだ)

 自分の感情で、彼女の居場所を曇らせた。どんな理由があっても、兄の妻を引き裂く資格なんて、俺にはなかった。

 それでも――。

「忘れられるわけ、ないよ」

 椅子に腰かけたまま、深く息を吐いた。綾乃の名前を呼ぶ声が、今も胸の奥で疼く。

 ただの“間宮家の義弟”でしかなかった自分に、目を向けてくれたあの時間。

 ――名前を、呼んでくれた。その声が、泣きそうに震えた瞬間も。それだけで、人生の色が変わってしまうほどだった。

 だからこそ、手紙には何も求めなかった。会いたいとも、連絡してほしいとも書かない。ただ、彼女が幸せでいてくれるなら――それでいい。そう思い込もうとした。

(……思い込もうと、してるだけかもしれないけど)

 駅前のポストに、冷たい封筒をそっと滑らせる。この一通が届くころ、綾乃はどうしているだろう。

 もしかしたら何も感じないかもしれない。それでもいい。忘れてくれてもいい。ただ一度だけ、彼女の心をふるわせた存在として、俺が残れたなら。

 それが俺の罪に対する、たった一つの救いだった。
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