触れてはいけない距離

問いの手前

 夜遅く、ダイニングの明かりだけが、ぼんやりと灯っている。綾乃はテーブルの向こう側で、紅茶を見つめていた。

 言葉もなく動きもなく、ただ水面に映る心を、沈黙で隠すように。

「……湊の荷物、全部片付いてた」

 静かに告げると、彼女の肩がほんのわずかに揺れた。その小さな動きが、胸を刺した。

 返事はない。彼女は目を伏せ、唇をかすかに噛む。まるで、俺の言葉を拒むように。

「お前、なにも聞かないんだな」

 綾乃はゆっくりと瞼を閉じる。その仕草が、すべてを知っていたと告げているようだった。

「俺も……聞かないようにしてた。ずっと」

 崇は椅子に腰を下ろす。コーヒーも紅茶も飲まず、ただ彼女と向き合う。テーブルの冷たい木目が、指先に重い。

「湊が出て行った理由、わかってる。だがお前が言わない限り、俺は言葉にできない。胸が締めつけられるだけだ」

 綾乃の喉が小さく鳴った。その痛々しい沈黙が、罪の重さを語る。

「――私、謝る資格なんてない」

 それが綾乃の答えだった。告白でも言い訳でもない。ただ、降参のような壊れた声。

 崇はしばらく黙った。湊と綾乃がどこまで踏み込んだのか、わからない。だが、たとえ触れ合わなかったとしても、彼女の心はもう俺の手にはなかった。

「……やり直そうとは、俺は言わない」

 その言葉に綾乃が顔を上げた。驚きと悲しみが、彼女の瞳で揺れる。涙が、こぼれそうだった。

「でも、お前のこと、手放すつもりもない。俺にだって、気持ちがある。綾乃、お前をまだ愛してる。どんなに汚れても、俺の心は変わらない」

 まっすぐな言葉だった。責めず、泣かず、ただ苦い愛を差し出すように。

 綾乃の目から、ぽたりと涙が落ちた。後悔か、安堵か、別れへの悲しみか――彼女自身にも、わからない涙だった。
< 40 / 45 >

この作品をシェア

pagetop