触れてはいけない距離

答えを持たない手紙

 湊がこの家を出てから、季節がひとつ過ぎた。春の終わり、どこかまだ寒さの残る風が、まだ冷たい風が、玄関の隙間から忍び込む。

 テーブルの上には、差出人のない一通の封筒。だが、すぐにわかった。この整った筆跡、この静かな間合い。湊のものだ。

 封を切る手が震えて止まる。胸が締め付けられるように熱い。

綾乃さんへ
あれから時間が経ちました。
あの家で過ごした日々は、きっと間違いだった。
けれど間違いだからこそ、忘れられないんだと思います。
あなたに「名前を呼ばれた日」を、何度も思い出します。
自分の存在が、誰かにとって意味を持てたような――そんな気がしていました。
今は、新しい場所で働いています。少しずつだけど、ちゃんと生きています。
あなたは、あの家で笑えていますか。
俺はまだ、あなたの声を聞きたくなります。


 何度も読み返したその手紙は、どこにも“誘い”の言葉はなかった。それでも綾乃の胸に刺さったのは、湊の真摯な未練――そして、彼が残したやさしい不在。

 手紙を受け取ったのは、午後の日差しが静かに差し込む休日だった。部屋の空気がどこか重い。

 宛名を見るたび、胸の奥が熱く疼く。あの日の声が「綾乃さん」と呼ぶ響きが蘇る。もう戻らないはずの声なのに。

 最後まで読んだとき、綾乃はそっと目を閉じた。涙は出なかった。ただ、心が少しだけ揺れた。罪と、愛と、別れの重さで。

(……ありがとう)

 胸の奥で、そっと呟いた。湊の名を、もう一度だけ呼びたかった。
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