触れてはいけない距離

ふたたび、名前を呼ぶ日

 湊がこの家を出てから、半年が過ぎた。初夏の気配を帯びた風が、柔らかく玄関の隙間を抜ける。

商業施設の中庭。植え込みのそばのベンチに、綾乃はふと足を止めた。理由はなかった。偶然といえば偶然。でも、どこかで呼ばれた気がした。

視線の先――スーツ姿の男が立っていた。目が合った瞬間、時間が止まり、過去が胸を刺した。

「……湊くん?」

 思わず名前を口にしていた。その声が、震えるように空気に溶けた。湊が一瞬、驚いたように目を見開く。

 だが次の瞬間、あの懐かしい、どこか切ない笑顔が浮かんだ。

「――綾乃さん」

 それは手紙に綴られた呼び方と、同じ響きだった。あの日の罪と温もりを宿して。

 ふたりの間に、風が吹き抜ける。誰もいない午後の広場に、柔らかな日差しが揺れる。

 そこにあったのは、未練でも後悔でもない。ただ、名前を呼び合える、かすかな温度だった。

 ふたりは並んでベンチに腰かけた。言葉はすぐに出なかったが、沈黙はどこか心地よく、心を軽くした。

「元気そうでよかった」

 先に口を開いたのは湊だった。その声に、かすかな安堵が滲む。

「湊くんこそ……なんだか、顔が穏やかになったね」
「うん、まあ……前より、ちゃんと眠れてるよ」

 冗談めいた言葉に、綾乃の頬がゆるむ。その笑顔に、過去の重さが一瞬だけ溶けた。

 湊も同じように笑った。

 すぐになにかが始まるわけではない。だがふたりの間には、間違いを犯したあとの静けさがあった。

そしてそこには、壊れたものを越えて、再び始める余白があった。
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