触れてはいけない距離

その名を呼ぶ日々

 あの日、偶然のように再会した湊と、私たちはすぐに連絡先を交換したわけではなかった。

 ただ「また、どこかで」と、彼は笑って言った。その言葉が嘘じゃないとわかったのは、数週間後のことだった。

 たまたま立ち寄った書店で、また彼と出会った。そのとき、偶然を信じるには、胸があまりに熱かった。なにかが、私たちを再びつなげようとしている――そんな気がして、怖くもあった。

「偶然って、三回続いたら運命って言うんでしたっけ?」

 照れくさそうに湊がそう言うと、私は笑った。その笑顔に、過去の痛みが一瞬だけ疼く。たぶん、あのとき初めて「また話したい」と心から思った。

 それからは少しずつ。数ヶ月に一度、どこかで会って、たわいのない話をした。連絡先も、自然と交わす言葉の延長で交換していた。

 季節が移り変わるたび、湊は私の世界にそっと戻ってきた。でももう、あの焦燥や背徳の影はなかった。

 ただ他人という長い距離を経て、名前を呼び合える場所に帰ってきた――そんな感覚だった。

「綾乃さん、前より笑顔が柔らかいですね」

 ある日、湊はそんなふうに言った。その声にあの日の「綾乃さん」が重なる。

「……歳をとっただけかも」
「ううん、それだけじゃない。ちゃんと、心から笑ってる」

 そう言って彼がくれた紅茶は、私の好きなブレンドだった。カップの温もりが、指先に染みる。

 変わったようで変わらない。でも、触れなかった過去を越えて、正しい順序で重ねた時間が、そこにあった。

 いまの私は、崇と離婚している。それは湊のせいではなく、長い沈黙と向き合った私の選択だった。

 湊もまた自分の傷を抱えながら、ようやく人生を前に進めていた。

 どちらも過去に傷を負っている。それでも、もう一度、誰かを想える場所に立っていた。

「綾乃さん、次の休みにどこか行きませんか?」

 不意にそう言われ、私は驚き、胸が軽く温まった。すぐに笑って頷く。

「うん。行こう。」

 手はまだ、触れていない。でも、声は確かに届いている。

 “恋”というには静かで、“愛”というには未熟で。それでも確かに、育ち始めているものがあった。

 今度こそ、名前を呼ぶたびに、その人をちゃんと見ていられる。そう思えるだけで胸が温かく、軽くなるのだった。
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