彩葉という名の春
第2章

邂逅




 

 

──冷たい風が
どこからか吹き抜けていった

 

 

「……ん……」

 

 

ゆっくりとまぶたを開ける

 

 

目の前に広がっていたのは
見慣れた蔵の天井ではなかった

 

 

低い瓦屋根の民家
土と砂利の道
重たい雲が垂れ込めた薄曇りの空

 

 

 

「……え……?」

 

 

 

状況が飲み込めないまま
ゆっくりと立ち上がる

 

 

「どこ……ここ……?」

 

 

胸がざわざわと騒ぎ出す

 

 

辺りを歩く人々は
和装や昔の洋服を身にまとっていた

 

 

電柱も電線も無い
見たことのない景色に
息が浅くなっていく

 

 

 

──これは夢?
いや、違う……でも現実とも思えない

 

 

手元のスマホを探しても、ポケットは空だった

 

 

「っあれ?っ……ない……」

 

 

 

そこに突然──

 

 

 

──ウゥゥゥゥ……

 

 

遠くからサイレンが響き始めた

 

 

「え……?」

 

 

慌てて走り出す人々

 

 

「空襲警報だ!防空壕へ急げ!」

 

 

「防空壕!子ども連れて!」

 


「急げ、早く!」

 

 

人の流れに飲み込まれ
彩葉もとっさに駆け出した

 

 

息が切れる
足がもつれて転びそうになる

 

 

「──きゃっ!」

 

 

倒れ込んだ瞬間
誰かの手が素早く伸びた

 

 

 

「危ない!」

 

 

 

ぐいっと強く引き上げられる

 

 

支えられた体が彼に寄りかかる形になる

 

 

 

顔を上げた瞬間──

 

 

整った輪郭
真剣な眼差し
凛とした雰囲気

 

 

だけど──優しい声

 

 

「大丈夫ですか?」

 

 

「……あ……」

 

 

言葉が詰まる

 

 

なぜだろう
どこかで──見たことがあるような……

 

 

けど、すぐには思い出せない

 

 

「怪我はありませんか?」

 

 

「あ……だ、大丈夫です……」

 

 

「よかった。ここは危険です、避難しましょう」

 

 

背中にそっと手を添えられる

 

 

その温もりが、不思議と落ち着かせてくれる

 

 

 

何が何だかわからないまま
彩葉は彼に導かれるまま走り出した

 

 

頭の中は混乱していた

 

 

でも──
彼の手の温かさだけは
はっきりと覚えていた

 

 

 

──防空壕の中──

 

 

薄暗い空間に身を潜めながら
彩葉は息を整えた

 

 

「……お怪我は本当にありませんか?」

 

 

「あ……はい。ありがとうございます……」

 

 

彼はホッとしたように微笑んだ

 

 

──その笑顔に
また胸が少しザワついた

 

 

「おひとりですか?」

 

 

「あ、えっと……その……」

 

 

彩葉は何を言えばいいかわからず、目を伏せた

 

 

今は何も説明できる言葉を持っていなかった

 

 

「……迷子、みたいで……」

 

 

彼は驚くでもなく、ゆっくり頷いた

 

 

「大丈夫です。少し落ち着きましょう」

 

 

静かに、自分の上着を脱ぎ
彩葉の肩にそっと掛けてくれた

 

 

「寒いでしょう。お使いください」

 

 

「あ、ありがとうございます……」

 

 

──優しい人だな……

 

 

そう思いながらも
胸の奥にはずっと残る違和感があった

 

 

彼の顔を、何度もこっそりと見つめる

 

 

 

──この人……どこかで……

 

 

 

でもその正体にまでは、まだ辿り着けなかった

 

 

 

「申し遅れました」

「私は藤宮──藤宮恭介と申します」

 

 

 

 

──ドクン

 

 

 

鼓動が跳ねた

 

 

 

「……ふ、じ……みや……?」

 

 

「はい」

 

 

「軍に所属しています。近衛歩兵第三連隊です」

 

 

 

彼は自然に名乗ってくれた

 

 

けれど彩葉の頭の中では
名前の響きだけが何度も反響していた

 

 

藤宮──恭介

 

 

 

──まさか、そんな偶然……ある?

 

 

 

まだ現実としては飲み込めない

 

 

でも胸の奥に
ほんのわずかな震えが、静かに生まれていた

 

 

 

「あなたのお名前は?」

 

 

「……え、あ……その……」

「記憶が……少し曖昧で……」

 

 

「そうですか」

「無理に思い出さなくても大丈夫です。今は休みましょう」

 

 

 

恭介は
すべてを受け入れるように微笑んだ

 

 

 

──運命は、静かに動き出していた──



 
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