彩葉という名の春
第3章

仮の家族

──防空壕の中──

 

 

遠くで鳴り響いていたサイレンが
いつの間にか静かになっていた

 

 

彩葉は薄暗い中で、ずっと隣にいる彼──恭介を見つめていた

 

 

まだ胸の鼓動は落ち着かない

 

 

ここがどこなのか
何が起きたのか
全てが分からないままなのに

 

 

ただ一つ分かるのは
彼の手がとてもあたたかかったということ

 

 

「もう大丈夫そうですね。出ましょうか」

 

「あ……はい」

 

 

彼の言葉に導かれて、防空壕を後にする

 

 

外に出ると
夕暮れの冷たい風が頬を撫でた

 

 

微かに焦げた匂いが鼻をかすめる

 

 

彩葉は無意識に恭介の隣にぴたりと寄り添った

 

 

「足元、気をつけてください」

 

「あ、ありがとうございます……」

 

 

歩きながらも、彩葉の頭の中はぐるぐると混乱していた

 

 

──やっぱり、どこかで見た気がする……
でも……まさか……

 

 

まだ答えには辿り着けないまま、足を進めていた

 

 

「このままでは危険です。今晩の宿が決まるまで、私の家で休みましょう」

 

「えっ……でも、そんな……」

 

「構いません。今はあなたの身の安全が最優先です」

 

 

優しく、でも有無を言わせない強さのある声だった

 

 

彩葉は迷った末に、そっと頷いた

 

 

「……ありがとうございます」

 

「どういたしまして」

 

 

 

──

 

 

 

十五分ほど歩いた先に
恭介の家はあった

 

 

門構えの立派な古民家だった

 

 

「こちらが私の家です」

 

「……すごい……」

 

「いえ、大した家ではありません」

 

 

門をくぐり、玄関に入ると
木と畳の香りがふわっと広がった

 

 

「母は疎開先におります。今は私一人で暮らしています」

 

「あ、そうなんですね……」

 

「どうぞ、遠慮なくお上がりください」

 

 

勧められるままに座敷に上がり
出された湯呑みを両手で包み込む

 

 

湯気がふわりと立ち上り
冷えた指先がじんわりと温まっていく

 

 

「少しは落ち着きましたか?」

 

「……はい。ありがとうございます」

 

「よければ……お名前を伺っても?」

 

「あ……」

 

 

一瞬、彩葉は言葉を詰まらせた

 

 

けれど
どうしても嘘をつく気にはなれなかった

 

 

「……神崎、彩葉です」

 

「神崎彩葉さん──ですね。しばらくは、こちらでお預かりします」

 

「……ありがとうございます」

 

「大丈夫。ご安心ください」

 

 

その優しい眼差しに
胸の奥がまた熱くなった

 

 

──

 

 

 

「恭介さん、ただいま戻りました!」

 

 

突然、玄関から声が響いた

 

 

ふたりが顔を向けると
若い兵士服の青年が勢いよく入ってきた

 

 

「あ、田嶋」

 

「おや?お客さん……?」

 

 

青年──田嶋誠二は、目を丸くした

 

 

「迷子の方を一時的に保護している」

 

「あ〜なるほどなるほど!そっかそっか!いや、びっくりしましたよ〜。誰かの妹さんかと思っちゃいました」

 

「あ、あの……」

 

「お嬢さん、大変でしたねぇ。ご無事で何よりです!」

 

「あ……ありがとうございます……」

 

 

田嶋はにこっと笑った

 

 

「神崎さん、ですよね?よろしくお願いします」

 

「はい……よろしくお願いします」

 

「お名前も可愛いですね。彩葉さんって」

 

「え……あ、ありがとうございます……」

 

 

横で恭介が静かに微笑む

 

 

「彩葉さんには、しばらくこちらでお世話になってもらいます」

 

「おっ、そりゃいいですね。困ったことがあったら俺にも遠慮なく言ってくださいね!」

 

「あ……はい……」

 

 

田嶋は明るく朗らかで
彩葉の緊張を少しだけ和らげてくれた

 

 

そのやり取りを静かに見守る恭介の視線が、ふと柔らかくなる

 

 

「神崎さん、今日はお疲れでしょう。今夜はゆっくりお休みください」

 

「はい……本当に、ありがとうございます……」

 

「こちらこそ」

 

 

──こうして彩葉は

不思議なこの時代で

藤宮家という仮の居場所を得たのだった──
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