彩葉という名の春
第7章
淡い春の日
──数日後──
少しずつ、春の空気が街を包み始めていた
まだ冷たい風の中に
柔らかな日差しが差し込み始める
彩葉は藤宮家の庭先で
ゆっくりと洗濯物を干していた
「……すごい……手洗いって、こんなに大変なんだ……」
ゴシゴシと洗濯板を使って擦るたびに
指先がじんわり痛くなっていく
でも、なんとなく嫌ではなかった
「やはり慣れない作業は大変でしょう?」
「あ……恭介さん」
恭介が穏やかに声をかけてきた
「無理はなさらなくてもいいのですよ」
「いえ……こういうの、やってみたくて……」
「ふふ……彩葉さんは本当に真面目な方ですね」
彼の微笑みは、春の日差しみたいに柔らかかった
「でも、手が荒れてしまいます。こちらを」
恭介はそっと、小さな缶を差し出した
「これは?」
「薬草の油です。少し塗るだけで、皮膚の荒れが和らぎますよ」
「……ありがとうございます……」
彩葉は両手をそっと恭介に差し出す
恭介は真剣な表情で
丁寧に油を塗り込んでくれた
「……痛むところはありませんか?」
「……大丈夫です」
手と手が触れ合う
静かな時間
すぐそばにある彼の顔
どくん、と鼓動が跳ねた
「彩葉さんの手は、小さいですね」
「え……」
「指も細くて、綺麗です」
「……っ……」
少しだけ目を逸らしてしまった
「……あ、あの……」
何か言葉を探そうとしたその時──
「恭介さんー!!」
遠くから元気な子どもたちの声が飛んできた
「お手紙!お手紙来てたよ!」
子どもたちが数人、走ってやってきた
「ありがとう。郵便係さん、助かりました」
「えへへ、また運んでくるね!」
「お姉さんも遊ぼうよー!」
「う、うん……また今度ね?」
「約束だよー!」
子どもたちが去っていくと
恭介が少し笑った
「随分懐かれておられますね」
「皆さん可愛いから……」
「彩葉さんが優しいからですよ」
また、心臓が跳ねる
「……そんなこと……」
思わず俯いた
でも、その視線の先で
自分の手を包む恭介の手がまだ温かく残っていた
──
夕方──
座敷に戻ると
ラジオから静かに戦況を伝える声が流れていた
『……昨夜、○○方面にて空襲……死傷者○○名……』
耳に入るたび
胸がきゅっと苦しくなる
「……これが、今の現実なんですね……」
「ええ……これが現実です」
恭介の声も
少しだけ沈んでいた
「……どうして、皆こんなに普通に暮らしていられるんでしょうか」
「人は、慣れてしまう生き物だからです」
「……」
「けれど、私は……できるだけ”普通の日常”を守りたい」
「……」
「あなたがここに来た日も、空襲警報が鳴っていました」
「あ……はい……」
「私は──あなたが無事だったことに、心から感謝しています」
そう言って微笑む彼の目を
じっと見つめてしまった
胸が
また苦しくなっていく
この人は、どうしてこんなに優しくて
どこまでも強いんだろう──
そして私も、いつの間にか
この人に惹かれていっている気がしていた
でも、その気持ちにまだ蓋をしていた
まだ──認めるのが、少し怖かった
⸻