婚約者が妹と結婚したいと言ってきたので、私は身を引こうと決めました
元後者令嬢の私に、家事はさせられないと、グレイブは通いのお手伝いを雇っていた。

隣に住むミーシャさんだ。


ある日、ミーシャさんの視線が、私の手にじっと注がれていることに気づいたのは、水汲みをしようとした時だった。

バケツに手をかけようとした私に、冷たい声が飛んでくる。

「その手で、水なんて汲まないでください。」

驚いて振り向くと、ミーシャさんが鋭い目をして私を見ていた。

戸惑いながらも手を引っ込めると、彼女はわざとらしく笑う。

「水仕事もしたことないような、真っ白な手。ああ、嫌だわ。」


その言葉は、鋭く胸に突き刺さる。

彼女の視線は私の指先をなぞるように追い、そこにある“貴族”の証を責めているようだった。


「いいわね、お嬢様は。どうやってグレイブを口説いたの? まさか、泣いてすがっただけ?」

心に刺さるような皮肉に、私は言葉を失った。

グレイブの隣に住むミーシャさんが、彼のことを好きだったなんて……今まで気づかなかった。

けれど、彼女の苦しみも、怒りも、少しだけ分かる気がする。

きっと彼のそばにいられると信じていたのに、突然、元公爵令嬢である私が現れて、彼の心を奪ってしまった。

でも――


「……口説いたわけじゃないわ。ただ、私が泣いていた時に、グレイブがそばにいてくれただけ。」

正直にそう答えた。

それが彼との始まりだった。

見栄も計算もない、本当にただ、泣いていただけの私を抱きしめてくれた、あの夜。


「あなたがどれだけグレイブを想っていたかは知らない。でも、私も……彼を失いたくなかった。それだけよ。」

ミーシャさんは黙っていた。

その瞳には、怒りとも、悔しさともつかない、複雑な光が宿っていた。

――私はまた誰かを傷つけてしまったのだろうか。


そう思うと、心が少しだけ痛んだ。

けれど、譲れないものが、私にもある。

たとえどれだけ恨まれても、私は彼を選んだ。

そして、彼に選ばれた――それだけは、誰にも否定させたくなかった。
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