【シナリオ】恋も未来も、今はまだ練習中。

第4話 音のはじまりと、ふたりの距離





○大学・子ども発達実習棟2階・保育実習室/夕方

 パンケーキ屋から戻ってきた美哉と汐梨。サークル室のドアを開けると、すでに何人かのメンバーが片付けをしていた。

榛名「おかえりー。甘いもの食べた後は、集中力増すらしいよ?」

美哉「じゃ、今夜は汐梨ちゃんのピアノレッスンからで」

汐梨「ええっ!? そんな、私まだ……」

 焦る汐梨をよそに、美哉は手際よく部屋の奥にある電子ピアノのカバーを外す。

柚子「大丈夫だよ、最初は誰だってそうだったもん」

理玖「うん。私も音符すら読めなかったし」

汐梨(でも……みんな、優しい)

 汐梨は意を決してピアノの前に座る。美哉は彼女の隣に座り、課題曲の楽譜を机に並べる。

美哉「よし、まずは……この和音、弾いてみよっか。ド・ミ・ソ」

 指示された鍵盤を恐るおそる押す汐梨。だが、音がにごる。

汐梨「……あ、また変な音になっちゃった……」

美哉「指、ここ。親指がちょっと寝てるんだよね。こうやって」

 そう言って、美哉はそっと汐梨の手に触れる。優しく、でも確かに軌道修正するように指を添える。

汐梨(あ……手、あったかい)

 心拍数が跳ね上がるのを感じた。ふと顔を上げると、美哉の顔が、こんなにも近くにあることに気づく。

美哉「……できるよ。ほら、もう一回やってみて」

 その優しい声に背中を押されて、再び鍵盤を押す。

――ポーン。

 今度は澄んだ、きれいな和音が鳴った。

汐梨「……できた……!」

美哉「うん。すごいじゃん」

 少し照れくさそうに笑う汐梨に、美哉も満足そうに微笑む。


 

○保育実習室・別テーブル/夜近く

 練習が一段落し、サークルメンバーたちが集まっておしゃべりをしている。ピアノの練習のあと、美哉はポットでいれたハーブティーを汐梨に差し出す。

美哉「お疲れ様。はい、リラックス用」

汐梨「ありがとうございます」

 カップを受け取ると、ミントの香りが鼻に抜ける。

汐梨「……なんだか、すごく久しぶりです。こんなふうに、誰かに褒められたり、優しくされたりするの」

美哉「へえ、そうなの?」

汐梨「はい。高校時代から、なんだかずっと“できない人”で通ってきたので……誰かに頼るのが苦手だったんです」

美哉「うん、それは分かるかも。でもさ、ここのみんな、たいてい“できなかった人”ばかりだよ」

 そう言って、美哉はテーブルの端をトントンと指で叩く。

美哉「俺も最初の声楽試験、ひどかった。指導教員に“喉、どこに置いてきた?”って言われたし」

汐梨「えっ、そんなこと言われるんですか!?」

美哉「言われた。泣いた。コンビニでバウムクーヘン爆食いした」

汐梨「ふふっ……!」

 二人は顔を見合わせて笑う。さっきまでの緊張が、ほんの少し、やわらかくなる。


 

○大学構内・夜の帰り道

 帰り道。大学の建物を出て、少し肌寒くなった風に当たりながら歩くふたり。

汐梨「今日は……ありがとうございました」

美哉「こちらこそ。新しいメンバーが入ってくれて、ちょっと嬉しかったんだよ」

 汐梨は歩きながら、自分の心に芽生えているものに気づく。

(この人、チャラいのかもしれないけど、ちゃんと人を見てくれる)

 そんな美哉が、ふと立ち止まり、ポケットから何かを取り出す。

美哉「はい、これ」

汐梨「……?」

 それは、小さな消しゴムだった。手のひらサイズで、ピアノの形をしている。

美哉「入部記念。サークル伝統の、新入りさんへのプレゼント。いらなかったら、捨ててもいいけど、もしよかったらもらって。もらってくれたら、嬉しい」

汐梨「……かわいい。大事にします」

 そう言って受け取った瞬間、指が触れ合う。

 時間がふっと止まる。

汐梨(なんでだろう……胸の奥が、じんわりあったかい)

 そして彼女は気づく。

(これが、“はじまり”ってことなのかもしれない)
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