キスはボルドーに染めて
「でもぉ、松岡主任みたいな人が、派遣の私たちを本気で相手にするわけないですよねぇ。陽菜美さんもそう思いません?」

 きゃははと笑う沙紀の声に、陽菜美はもう愛想笑いすらできなくなっていた。

 二度と泣かないと決めていても、やはりまだ心の傷は完全には癒えていない。

 マウスに乗せた指先がわずかに震えている。

 沙紀が「どうかしましたぁ?」と顔を覗き込ませた時、陽菜美はバッと立ち上がった。


「えっと、私……始業前にトイレ行ってくるね」

 陽菜美はわざと明るくそう言うと、さっき壁につけたマグネットを雑に外し、足早にフロアを出る。

 息を切らしながら廊下を進み、角を曲がった所で壁にへたり込んだ。


「泣くな……泣くな……」

 陽菜美は自分にそう言い聞かせると、持ってきたマグネットをぎゅっと胸に抱きしめる。

 そしてあの日、蒼生に言われた言葉を心の中で繰り返した。


 『君に必要なのは泣くことじゃない。顔を上げることだろう?』


 ぎゅっと閉じた陽菜美の瞼の裏に、蒼生の笑顔が浮かんだ。
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