その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
自宅に戻った貴之は、ゆっくりとウイスキーのグラスを傾けた。
琥珀色の液体が、喉をゆるやかに流れていく。
グラスの冷たさと胸の奥に広がる熱。
久しぶりに抱いた麻里子の温もりが、今も掌に残っていた。

今夜は、最初から抱くつもりだった。
拒まれても構わない、そう覚悟していたのに、彼女はむしろ、すがるように求めてきた。
もっと…と、愛しさに揺れながら甘えてきた。
その声が、仕草が、忘れられない。

辞表を受け取ったあの日から、ずっと衝動を抑えてきた。
上司としての線を越えてはいけないと、自分を律してきた。
それでも、時折彼女が見せる影のような表情に、何度も手を伸ばしたくなった。
あの涙の意味を、俺だけが理解できたら。
そんな思いを、胸の奥にそっと沈めてきた。

だが、今日、確信した。
麻里子は俺を愛している。
最後の会話で、彼女は一言も「嫌いになった」とは言わなかった。
むしろ、迷いながらも俺を見つめるその瞳が、何よりの答えだった。

だからこそ、激しい衝動を抑え、丁寧に彼女を愛した。
抱きしめる腕に、ゆっくりと想いを込めて。
彼女の心が壊れないように、優しく、慎重に。
甘く乱れる姿が美しくて、いとおしくて、何度も息を飲んだ。

ウイスキーを一口含む。
煙のように広がる香りとともに、静かな満足が胸を満たしていく。

.......さて、どうやって彼女に、
「愛されること」
「大切にされること」
その幸福に、少しずつ慣れてもらおうか。

貴之はゆっくりと夜空を見上げた。
雲の切れ間からのぞく星々が、まるで答えるように瞬いている。

夜風がカーテンを揺らし、静かな夜が包み込んでいった。




麻里子は、いつものように静かに目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む朝の光。
目をこすりながら横を向くと、そこに貴之の姿はなかった。

……あれは夢だったのかしら。
あまりにも優しくて、まるで壊れものを扱うような、慈しみに満ちた時間だった。

ふと、胸の奥がじんわりと温かくなる。

麻里子はゆっくりとベッドを出て、キッチンへ向かった。
テーブルの上に、ひとつのメモが置かれている。
「鍵はいつもの引き出しに」
貴之の筆跡だった。

夢ではなかった。
昨日の夜、確かに彼に抱かれたのだ。

そのことを確かめるように、麻里子は指先でメモをなぞった。
思い出が、静かに胸に戻ってくる。


シャワーを浴びて、鏡の前に立つ。
タオルで髪を拭きながら、ふと首筋に目をやると、そこには小さな赤い痕が。
……こんなところに。
それだけではなかった。
目に見えない部分に、彼の残したいくつもの証が、静かに疼いていた。

けれど、あまりに幸福だったからこそ、ふと胸がざわつく。

あれは一瞬の気まぐれだったんじゃないか。
辞表を出して、気が抜けていた自分が弱かっただけなんじゃないか。

麻里子は小さく首を振った。
思い出すたびに蘇る、何度も囁かれた「愛している」の声。
その言葉の重さと、抱きしめられたときの安心感は、嘘じゃなかった。
そう信じたい。けれど、それが“恋”なのか“情”なのか、まだうまく判別がつかない。


「いけない……仕事に行かなくちゃ」

そう口にしてみると、不思議と気持ちが引き締まった。
だけど…心の奥に残った熱は、簡単には冷めそうになかった。
胸の奥に広がるのは、ほんの少しの戸惑いと、言葉にならない喜び。

麻里子は鏡に向かって、ゆっくりと微笑んだ。
そして、今日という一日を歩き出す準備を始めた。

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