その抱擁は、まだ知らない愛のかたち

本質的な愛情

翌朝になっても、貴之の態度は昨日と変わらないままだった。メッセージも来ない。
(やっぱり、あれは特別じゃなかったのかな)
そんな思いが一瞬よぎったが、麻里子は気持ちを切り替え、目の前の仕事に集中した。今夜は麴料理教室。今日は酒粕を使ったメニューの日だ。香り高い一品が楽しみで、それだけが今の救いだった。

終業後、急ぎ足で教室へ向かう。扉を開けると、すでに美和子が席に着いていた。

「美和子さん、こんばんは」
「麻里ちゃん、こんばんは。すっかり元気そうね」
「はい。先週は…失礼しました」
「気にしないで。誰にでもあることよ」

笑顔を交わしたところで授業が始まり、教室はいつもの温かな雰囲気に包まれた。湯気の立つ酒粕のスープ、ふくよかな香り。心も少しずつほぐれていく。

帰り際、美和子が声をかけた。
「麻里ちゃん、今週末、お茶でもどう?」
「はい、土曜日なら空いてます」
「じゃあ、11時にうちのマンションのエントランス前で」
「了解です~」

タクシーで帰るという美和子に手を振って別れを告げ、麻里子は駅へと歩き出す。

夜風が、少し肌寒い。
あと一日で今週も終わる。
なぜだろう、ほんの少しだけ、胸の奥がきゅっとした。
楽しみにしていたはずの週末が、どこか遠く感じられた。


金曜日も、何事もなく終わった。
貴之からの連絡はなかったし、彼の様子も、いつも通りだった。まるで、何もなかったかのように。

(……これでいいのよね)

麻里子はそう自分に言い聞かせながら、湯上がりの髪をタオルで包んで、リビングへ戻った。蒸気の残る浴室の扉を振り返って、ふとため息がこぼれる。

テレビもつけず、音のない部屋。
テーブルの隅に積まれていた郵便物をなんとなく手に取る。請求書や案内状の束の中に、ふと目を引く色彩のはがきが一枚――。

「あっ……これ」

声が漏れた。
山永湖順。
銀座の百貨店・松本屋での個展の案内だった。

「わあ……」

(これ……行きたい)

小さくつぶやいた瞬間、心にふわりと灯がともるような感覚があった。
そうだ、来週、久しぶりに銀座へ行こう。

それだけで、少しだけ気分が上向いた。
お風呂上がりの肌に心地よい夜風が、そっと麻里子の肩を撫でていった。
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