その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
「本質的な愛情ってね……なんだと思う?」

美和子はフォークの先でケーキをすくいながら、わざとらしく小首をかしげる。
麻里子が目をぱちくりさせて返事をためらっていると、ふふっと含み笑い。

「理屈じゃなくてね、逃げても忘れても……結局、心がその人に向いちゃうような気持ち。
こっちが“もう無理!”って言ってるのに、心が“まだよ”ってささやいてくる。まったく、厄介なのよ。ね?」

美和子は、ふっと微笑みながら麻里子を見つめた。

「でも……それがある相手って、だいたいちょっと困った人なのよね。
優しいだけじゃなくて、腹も立つし、心乱されるし。
でも、やっぱり……なんだか好き、って思っちゃうのよ。理屈ぬきで」

そのまなざしには、まるで春の陽だまりのようなあたたかさが宿っていた。
過去を悔やむでも、何かを押しつけるでもなく──
ただ静かに、彼女の未来を信じている人の目だった。


麻里子が言葉を失っていると、美和子はいたずらっぽくウィンクした。

「まあ、気づいたときには、すでに落ちてるってこと。
それでも後戻りできないなら……あとはもう、楽しむしかないでしょ?」

カップを唇に運びながら、美和子はくすっと笑った。

「そういう相手に、一生のうち一度でも巡り会えたなら──それは、何ものにも代えがたい奇跡だと思うの。
だって、人は気づかぬまま、その人をすれ違いで失って、気づかぬまま人生を終えることもあるのだから」

「……」

美和子はふっと微笑んだ。
「大丈夫よ、麻里ちゃん。女はみんな、愛されていいの」
そのまなざしには、経験を重ねた女性だけが持つ、あたたかい余裕が滲んでいた。




夜。部屋の灯りを消して、麻里子はひとりベッドに横たわっていた。
カーテン越しに月明かりが差し込み、天井に淡い影を落としている。

──「本当に大切な人って、“怖い”を超えても残るのよ」

美和子のあの言葉が、静かに胸の奥で再生される。

(怖い……か。うん、たしかに、怖い)

好きになってしまうことも、信じてしまうことも、
その人の言葉ひとつで心が揺れる自分が、少し情けなくも思えて。
だから目をそらしていた気がする。

──「理屈じゃないのよ。心が勝手に向いてしまう。忘れようとしても、想いは消えないの」

(勝手に……向いちゃう。ほんと、そう)

意地を張っても、平気なふりをしても、
彼の声を思い出すだけで、胸がぎゅっとなる。

──「本質的な愛情ってね、見返りを求めないものよ。
  ただ、そこにいてくれるだけでいい……そう思えてしまう。
  それってもう、“無条件の愛”よね」

(そんなふうに、私……思ってたのかな)

自分がどうしたいのか、どうされたいのか、ぐるぐる考えてしまうのに、
それでもまた心は、彼のほうへ向かってしまう。
不器用で、遠回りばかりなのに。

──「大丈夫よ、麻里ちゃん。女はみんな、愛されていいの」

美和子の微笑みが、まるでそっと毛布をかけてくれるみたいだった。

(……愛されて、いいのかな。私も)

気づけばまぶたが重くなり、思考は霞のように淡くなっていく。
だけど心のどこかに、やさしく灯る火があった。
怖くても、信じてみたい。そんな気持ち。

そして、麻里子は静かに目を閉じた。

それは、小さな決意のようでもあり、
明日を迎える準備のようでもあった。

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