その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
「あら、美味しい……このサンドイッチも、すごくいいわね」
そう言って、美和子は明るく笑った。

「それで、麻里ちゃん。会社、辞めるの?」

紅茶を一口含みながら、美和子が穏やかに問いかけた。

「……はい。やりたいことがあって」

「なにをするのか、聞いてもいい?」

「うふふ……ちょっと笑わないでくださいね?」

麻里子はスプーンをくるくる回しながら、少し照れたように言った。

「小料理屋で働いてみたいなって。で、いつか……自分の隠れ家的なお店を、のんびりやれたらいいなぁって……」

「まあ、素敵じゃない!」

「ありがとうございます。でも、全然現実味ないんです。料理は好きだけど、プロじゃないし、経営のことなんてさっぱりで。妄想だけは一丁前ですけどね」

ふたりは思わずクスッと笑った。

「でもね、去年の誕生日にふと思ったんです。このまま一人で生きていくなら、せめて人生でひとつくらい、やりたいことを叶えてみてもいいかなって」

「うんうん」

「だから、急に辞めようと思ったわけじゃなくて。地味にずーっと考えてて……で、ようやく腹くくった感じです」

「ふふ、それが麻里ちゃんらしいわね」

「欲を言えば、全国を食べ歩いたり、できれば海外も……食の旅、してみたいんです」

「まあ、グルメな放浪記ね」

「はい!でも、放浪してる間に貯金が尽きたら、そのまま現地で働くしかないかもです」

麻里子の言葉に、美和子が吹き出しそうになりながらも、優しく微笑んだ。

「でも、そういう夢を口にできるって、素敵よ。……きっと、叶うわよ、麻里ちゃん」

「麻里ちゃん、それで……新しい職場はもう決まっているの?」

紅茶をひと口含んでから、美和子が穏やかに尋ねた。

「はい。兄の友人のおばさんがやっているお店なんです」

麻里子は少し恥ずかしそうに笑った。

「その娘さんが産休に入るらしくて……最初はアルバイトって形なんですけど、声をかけていただいて」

「まあ、そうなの。場所はどの辺?」

「お料理教室の近くで、このあたりからもわりと近いんです。夜遅くなる日もありそうなので、できれば通いやすいところがいいなって思っていたら……ちょうどご縁があって」

「もしご都合が合えば……ぜひ、滝沢さんとご一緒にいらしてくださいね」

麻里子はどこか嬉しそうに、ふんわりと微笑んだ。

「それにしても……お兄さんのご友人?」

「はい。小さいころから、妹みたいに可愛がってくれていて」

「……立ち入ったことを聞くけど、その方……独身なの?」

「えっ?」

麻里子は一瞬ぽかんとしてから、笑い出した。

「いえいえ、結婚されていますよ。子どもも三人いる、立派なパパです。会えばもう、奥さんののろけばっかりで」

美和子もつられて笑った。

思い出し笑いをしている麻里子は、その横で美和子がそっと安堵の息をついていることに、まだ気づいていなかった。



「ただいま」

玄関のドアを開けると、ほのかにウイスキーとレコードの残り香が漂っていた。
リビングでは、真樹が一人、ソファに凭れて本を読んでいた。
スーツは脱いでいて、眼鏡をかけたその姿は、少しだけ柔らかく見える。

「おかえり。遅かったな。麻里子さんと、ゆっくり話せたのか?」

美和子は靴を脱ぎながら微笑んだ。

「ええ。カフェでのんびりと。サンドイッチ、美味しかったわ」

そう言って、キッチンで軽く水を飲み、真樹の隣に腰を下ろす。
彼はグラスを差し出した。「飲むか?」

「ありがとう。少しだけ」

グラスを受け取りながら、美和子はぽつりと語り始めた。

「きっと彼女、ちゃんと気づいてるのよ。自分の心がどこを向いてるのか。
だけどまだ少し、怖いのよね。愛されることも、信じることも」

美和子は少しだけグラスを傾け、ウイスキーの香りに目を細めた。

「でもね、あの子、ちゃんと進もうとしてる。だから私は、
“大丈夫よ。女はみんな、愛されていいの”って伝えたの」

真樹がふと、横顔を見つめる。

「それは……美和子が、自分の道を信じて生きてきたから言える言葉だな」

美和子は静かに笑った。

「ううん。私がちゃんと“愛された”と感じているから、よ。あなたにね」

真樹は照れ隠しのように小さく咳払いをしたあと、
グラスを手に取り、静かに言った。

「……ならよかった。俺の人生も、間違ってなかったな」

ソファの隣同士。言葉は少なくても、そこには確かな想いが流れていた。

美和子はその静けさに包まれながら、
そっと、麻里子の幸せを祈っていた。
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