その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
スマートフォンの画面を見つめたまま、貴之はため息をついた。
送ったメッセージには、短くこうだけが返ってきた。
「元気です。お忙しいと思うので、お体に気をつけてください」
――それだけか。
まるで業務連絡のような文面に、思わず苦笑がこぼれる。
「……俺が忙しいのを言い訳にしてるのは、麻里子のほうじゃないのか」
既読がつくのを待つ時間は、今まであんなにも長く感じたことがあっただろうか。
返信が来たときの、ほんの一瞬の期待。けれど、それはすぐに冷たい現実に変わる。
「元気か? ずっと、気になってる」
「何か困ってることはないか?」
そんな想いを込めて送った言葉は、彼女の塩対応の前にあっさりと弾かれた。
冷たいわけじゃない。
でも、決して温かくもない。
その微妙な距離感に、貴之の胸はじくじくと痛んだ。
もう少し、素直になってくれてもいいのに。
いや、もしかして――俺が、また距離を詰めすぎたのか。
既読になったままの画面を閉じて、彼は額を押さえる。
ただ会いたいだけなのに。
声が聞きたい、顔が見たい、それだけなのに。
彼女が自分を避けている理由が、わからないわけじゃない。
焦りすぎた。追い詰めてしまったかもしれない。
「……悪かったな、麻里子」
静かにそう呟くと、彼はスマートフォンを伏せて、深くソファに身を沈めた。
胸の奥に溜まった感情だけが、じっと彼の中で燻っていた。
スマートフォンの通知が鳴ったとき、麻里子はちょうど溺愛小説を読み終えたところだった。やっぱり、私にとっては夢物語よね。ま、いっか、読んでいるのは楽しいし。苦笑交じりに文庫本を本棚へ戻す。
《今から会いに行ってもいいか》
一瞬、心臓が跳ねた。
まさか、来るなんて思っていなかった。メッセージを送ってくることはあっても、彼が“動く”ことはないと思っていたから。
「……どうして、今」
小さく呟きながら、
あの送別会の夜のあと、彼の優しさに溺れそうになった自分が怖くて、距離を取っていた。
それなのに、こうして彼は――また、扉の向こうに来ようとしている。
スマートフォンの画面を見つめたまま、返事を打つ指が止まる。
「来てほしい」とも「今は無理」とも言えない。
けれど、その迷いの隙間に、チャイムの音が鳴った。
――もう、来ていた。
麻里子は一瞬、心臓をつかまれたように固まったまま、玄関のほうを見つめた。
静かに立ち上がり、ゆっくりとドアを開ける。
そこには、立ち尽くす貴之がいた。
「……ごめん。返事を待つ前に、来た」
低く抑えた声。
抑えているのは、感情か、あるいは衝動か。
麻里子は何も言えずに立ち尽くした。
胸の奥にあった、冷たくて苦い氷が、彼の体温に触れてじわじわと溶けていくようだった。
「顔が、見たかった」
「声が、聞きたかった」
ゆっくりと手を伸ばす貴之。
けれど、触れずに止まった。
彼女の許しを、黙って待っている。
「……会いたかった。麻里子の声が、聞きたかった」
玄関先に立つ貴之の言葉に、麻里子は少しだけ眉を寄せる。
「職場で毎日会ってるじゃない……」
抑えた声で、どこか逃げるようにそう返す。
だが、貴之はかぶせるように言った。
「そうじゃない。……麻里子の、飯が食いたいんだよ」
一瞬、麻里子はぽかんとした。
次の瞬間、肩の力が抜けて――呆れたように笑った。
「そこなの? ……もうっ」
大きくため息をつきながらも、その吐息の奥に、確かにぬくもりがあった。
怒っているわけじゃない。
ただ、戸惑って、でも少しだけ、嬉しい。
その表情を見て、貴之の顔にほんの僅かな安堵の色が浮かぶ。
彼女の心の扉は、まだ半分しか開いていない。
けれど、その半分が、彼にはたまらなく尊
「あるものでいいなら、ね」
そう言って麻里子は、キッチンへと向かった。
貴之は、靴を脱ぎながら静かに微笑んだ。
“あるものでいい”と言ったその声に、拒絶はなかった。
それだけで、今夜は十分だった。
ダイニングテーブルには、炊きたての白いごはんと、野菜の味噌汁、冷蔵庫に残っていた常備菜が並んだ。
ほうれん草の胡麻和え、だし巻き卵、昨夜の筑前煮――
どれも派手ではないが、どれも麻里子らしい丁寧な味だった。
「……いただきます」
貴之は箸を持ち、静かに頭を下げる。
ひと口味噌汁をすすると、ふ、と小さく目を細めた。
「……ああ、これだ」
「何が?」
「これが、食いたかったんだよ。麻里子の飯」
その言葉に、麻里子はまたため息をつきながら、今度は小さく笑った。
「ほんと、あなたって……」
でも、その声にもう冷たさはない。
彼の“ただ会いたかった”という理由に、彼女は少しだけ心を許したのだ。
しばらくは、食器の音だけが部屋に響いた。
無言なのに、不思議と心地よい沈黙。
「これ、味付け変えた?」
貴之がふと、だし巻き卵を指して尋ねた。
「わかった? 最近甘さ控えめにしてるの」
「そうか」
そう言って、箸を進めながら、貴之はぽつりと続けた。
「……うまいな」
麻里子はその言葉に返事をせず、黙って味噌汁をすくった。
けれど、表情がほんの少し、緩んでいるのを貴之は見逃さなかった。
ふたりの距離はまだ戻りきってはいない。
けれど、同じものを食べ、同じ時間を過ごすことで、確かに少しずつ――心がほどけていた。
送ったメッセージには、短くこうだけが返ってきた。
「元気です。お忙しいと思うので、お体に気をつけてください」
――それだけか。
まるで業務連絡のような文面に、思わず苦笑がこぼれる。
「……俺が忙しいのを言い訳にしてるのは、麻里子のほうじゃないのか」
既読がつくのを待つ時間は、今まであんなにも長く感じたことがあっただろうか。
返信が来たときの、ほんの一瞬の期待。けれど、それはすぐに冷たい現実に変わる。
「元気か? ずっと、気になってる」
「何か困ってることはないか?」
そんな想いを込めて送った言葉は、彼女の塩対応の前にあっさりと弾かれた。
冷たいわけじゃない。
でも、決して温かくもない。
その微妙な距離感に、貴之の胸はじくじくと痛んだ。
もう少し、素直になってくれてもいいのに。
いや、もしかして――俺が、また距離を詰めすぎたのか。
既読になったままの画面を閉じて、彼は額を押さえる。
ただ会いたいだけなのに。
声が聞きたい、顔が見たい、それだけなのに。
彼女が自分を避けている理由が、わからないわけじゃない。
焦りすぎた。追い詰めてしまったかもしれない。
「……悪かったな、麻里子」
静かにそう呟くと、彼はスマートフォンを伏せて、深くソファに身を沈めた。
胸の奥に溜まった感情だけが、じっと彼の中で燻っていた。
スマートフォンの通知が鳴ったとき、麻里子はちょうど溺愛小説を読み終えたところだった。やっぱり、私にとっては夢物語よね。ま、いっか、読んでいるのは楽しいし。苦笑交じりに文庫本を本棚へ戻す。
《今から会いに行ってもいいか》
一瞬、心臓が跳ねた。
まさか、来るなんて思っていなかった。メッセージを送ってくることはあっても、彼が“動く”ことはないと思っていたから。
「……どうして、今」
小さく呟きながら、
あの送別会の夜のあと、彼の優しさに溺れそうになった自分が怖くて、距離を取っていた。
それなのに、こうして彼は――また、扉の向こうに来ようとしている。
スマートフォンの画面を見つめたまま、返事を打つ指が止まる。
「来てほしい」とも「今は無理」とも言えない。
けれど、その迷いの隙間に、チャイムの音が鳴った。
――もう、来ていた。
麻里子は一瞬、心臓をつかまれたように固まったまま、玄関のほうを見つめた。
静かに立ち上がり、ゆっくりとドアを開ける。
そこには、立ち尽くす貴之がいた。
「……ごめん。返事を待つ前に、来た」
低く抑えた声。
抑えているのは、感情か、あるいは衝動か。
麻里子は何も言えずに立ち尽くした。
胸の奥にあった、冷たくて苦い氷が、彼の体温に触れてじわじわと溶けていくようだった。
「顔が、見たかった」
「声が、聞きたかった」
ゆっくりと手を伸ばす貴之。
けれど、触れずに止まった。
彼女の許しを、黙って待っている。
「……会いたかった。麻里子の声が、聞きたかった」
玄関先に立つ貴之の言葉に、麻里子は少しだけ眉を寄せる。
「職場で毎日会ってるじゃない……」
抑えた声で、どこか逃げるようにそう返す。
だが、貴之はかぶせるように言った。
「そうじゃない。……麻里子の、飯が食いたいんだよ」
一瞬、麻里子はぽかんとした。
次の瞬間、肩の力が抜けて――呆れたように笑った。
「そこなの? ……もうっ」
大きくため息をつきながらも、その吐息の奥に、確かにぬくもりがあった。
怒っているわけじゃない。
ただ、戸惑って、でも少しだけ、嬉しい。
その表情を見て、貴之の顔にほんの僅かな安堵の色が浮かぶ。
彼女の心の扉は、まだ半分しか開いていない。
けれど、その半分が、彼にはたまらなく尊
「あるものでいいなら、ね」
そう言って麻里子は、キッチンへと向かった。
貴之は、靴を脱ぎながら静かに微笑んだ。
“あるものでいい”と言ったその声に、拒絶はなかった。
それだけで、今夜は十分だった。
ダイニングテーブルには、炊きたての白いごはんと、野菜の味噌汁、冷蔵庫に残っていた常備菜が並んだ。
ほうれん草の胡麻和え、だし巻き卵、昨夜の筑前煮――
どれも派手ではないが、どれも麻里子らしい丁寧な味だった。
「……いただきます」
貴之は箸を持ち、静かに頭を下げる。
ひと口味噌汁をすすると、ふ、と小さく目を細めた。
「……ああ、これだ」
「何が?」
「これが、食いたかったんだよ。麻里子の飯」
その言葉に、麻里子はまたため息をつきながら、今度は小さく笑った。
「ほんと、あなたって……」
でも、その声にもう冷たさはない。
彼の“ただ会いたかった”という理由に、彼女は少しだけ心を許したのだ。
しばらくは、食器の音だけが部屋に響いた。
無言なのに、不思議と心地よい沈黙。
「これ、味付け変えた?」
貴之がふと、だし巻き卵を指して尋ねた。
「わかった? 最近甘さ控えめにしてるの」
「そうか」
そう言って、箸を進めながら、貴之はぽつりと続けた。
「……うまいな」
麻里子はその言葉に返事をせず、黙って味噌汁をすくった。
けれど、表情がほんの少し、緩んでいるのを貴之は見逃さなかった。
ふたりの距離はまだ戻りきってはいない。
けれど、同じものを食べ、同じ時間を過ごすことで、確かに少しずつ――心がほどけていた。