その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
「ごちそうさま」

食べ終えた器をそっと重ねながら、貴之が静かに頭を下げた。
彼の声には、満腹以上の、満たされた何かがこもっていた。

「……ほんとにあるものでよかったの?」

「うん。あるもので、こんなに心が落ち着くんだから、やっぱり麻里子はすごい」

麻里子は呆れたように微笑むと、食器をまとめて立ち上がった。
その後ろ姿を、貴之は黙って目で追っていた。

「洗い物、私がやるから」

「……手伝わせてくれないんだな」

「手伝わせたら、きっと水の飛び散り方に私がイラッとするでしょ」

「……否定できない」
貴之が苦笑すると、麻里子もふっと笑った。

そういう何気ないやり取りが、
無理に言葉を探さなくても、沈黙さえも心地よくて――そんな距離感が、今のふたりにはちょうどよかった。

キッチンで水音が響く。
その間、貴之はリビングのソファに座り、ふと天井を見上げた。
静かな部屋。時計の針の音が、妙にやわらかく感じられる。

「麻里子」

彼女の名前を呼ぶと、水を止める音がした。

「なに?」

声の奥に、まだ答えのない想いが揺れていた。
けれど、その“揺れ”さえも、貴之にはたまらなく愛おしく思えた。

「……今から、出かけないか?」
不意に、静かな声が落ちてきた。

「え……今から?」

「スカイツリーの、天望デッキと回廊に行ってみたいんだ。麻里子と一緒に、夜景が見たい」

「どうして……?」

「嫌か?」
貴之は少しだけ身を引くようにして、苦笑を含んだ声で言った。
「あ、もしかして夜景って興味ない?」

麻里子はキッチンから一歩だけ出てきて、
手元のタオルで指先を拭きながら、そっと目をそらした。

「まだ……よくわからないの。あなたが、どれくらい本気で来たのかも」

「……本気だよ」
貴之は、ためらいもなく即答した。

麻里子は少し眉をひそめた。
「でもさっき、『麻里子の飯が食いたい』って言ってたじゃない」

「それも含めて、麻里子が好きなんだ」

真っ直ぐに向けられたその視線に、麻里子は息を詰めた。
胸の奥で、何かが静かに波紋を広げていく。

「……ずるいわ、あなたって」

そのまま、片付けを終えた麻里子がリビングへ戻ると、
貴之はソファに腰をかけて、どこか落ち着かない様子で立ち上がった。

けれど、その佇まいが、部屋の空気に静かな緊張を生んでいた。

そして次の瞬間――
何も言わずに、そっと彼の腕が伸びてきた。

拒む間もなかった。
そのまま、ふわりと優しく引き寄せられる。

麻里子の身体が、ゆっくりと彼の胸に収まった。
思わず目を閉じると、耳元で微かに、彼の深く落ち着いた呼吸が聞こえた。

安心と、戸惑いと、まだ名前のつかない何か。
それでも、ただ一つ確かなのは――
そのぬくもりを、今の自分が拒まなかったということだった。
< 107 / 127 >

この作品をシェア

pagetop