その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
展望回廊に出ると、東京の街がまるで宝石の海のように広がっていた。
麻里子は思わず足を止める。

「……きれい」
その一言に、貴之はうなずいた。

「だろ?」
短く返しながら、彼の手が自然に麻里子の手を取る。

驚くでも、強く握るでもなく、ただ静かに、温度を確かめるように。

周囲には観光客や若いカップルの笑い声が混ざっている。
けれど、ふたりの時間は、別のリズムで流れていた。

「夜景、好きだったっけ?」
貴之がふと横顔を見ながら尋ねる。

「……うん。こうして誰かと並んで見るのは、なんだか、特別」
麻里子は夜景から目を離さずにそう答えた。

しばらく沈黙が落ちたあと、貴之がぽつりと口を開く。
「……また、別のところにも夜景を一緒に見に行ってくれないか?」

麻里子はゆっくりと彼のほうを向き、真っすぐに見つめた。
けれど、すぐには何も言わない。

「……嫌か?」
貴之の声が少しだけ低くなる。

麻里子は黙ったまま、じっと貴之の顔を見つめる。
そして、少しだけ目を細めて――軽くにらんだ。

「……嫌だからじゃないのよ。そういうの、急に言うから困るの」

言葉とは裏腹に、その声にとげはなかった。
照れ隠しのようなその視線に、貴之は思わず微笑む。

「そうか。じゃあ……もう少しゆっくり言うことにする」
そう言って、優しく破顔する。

麻里子は視線を夜景へ戻しながら、ふっと小さく笑った。
それは、ほんの少しだけ心を許した合図だった。



「ちょっとだけ飲みに行かないか?」

そう言われてついてきた先は、駅から少し離れた住宅街にあるマンションの一室だった。
エントランスも廊下も静かで、外の喧騒がすっかり遠ざかっている。

「よかったら、ここで少しだけ」

灯りは落ち着いた色合いで、部屋全体がふたりの距離を包み込むように柔らかかった。

麻里子は、貴之と並んでカウンター席に腰を下ろした。
グラスを手にしながら、ぽつりと話し始める。

「……最近ね、麴の料理教室で、美和子さんと少し仲良くなれて」
麻里子はグラスをくるくると回しながら、小さく笑った。
「なんだか、それが……嬉しかったの。ああ、私ってちゃんと誰かと繋がれるんだって、ほっとしたというか」

笑いながらそう言った麻里子の声を、貴之は一言も遮らずに、ただ静かに聞いていた。
頷くことも、笑うことも、タイミングを外さずに、まるでその言葉を細胞ひとつひとつで受け止めているように。

麻里子はふと、話が途切れるたびに、彼の表情を確かめるように視線を送る。
貴之はそのたび、ほんのわずかに微笑みを浮かべ、ただ彼女の“今”を受けとめていた。

「好きな食べ物って、なんだっけ?」
そんな問いかけに、麻里子は「いきなり?」と笑って、ゆっくり考える。

「……炊きたての白いごはん。あと、柚子の香りがするもの」

「へぇ。なんか、麻里子っぽい」

「どこが?」

「しみじみしてて、あとから余韻が残るとこ」

一瞬、麻里子は照れたように口元をゆるめた。

そんな他愛のない会話のなかに、
“この人は、私を知ろうとしてくれてる”
という安心が、少しずつ溶けて満ちていく。

貴之は何も求めない。ただ、聞いてくれる。
その沈黙に、麻里子は守られていた。

ふたりの時間は、まるで音楽のように静かに、優しく流れていった。
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