その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
「そろそろ行くか」

そう言って、和彦が伝票を手に取って立ち上がる。

「え? かずちゃん、私、払うよ」

麻里子が慌てて言うと、和彦は軽く笑って首を振った。

「いらないって。麻里ちゃんに払わせたら、太郎に怒られるからな」

茶化すようにそう言って、笑顔を見せる。

「……ふふっ。かずちゃん、ごちそうさま。今夜はお世話になります」

麻里子は素直に頭を下げた。

カフェを出た二人は、ちょうど目の前に止まったタクシーに乗り込む。和彦がドアを開け、麻里子が先に乗り込んだ。

その様子を、少し離れた場所からじっと見つめる視線があった。

スーツ姿の男、鈴木貴之が、通りの陰に立ち、二人の姿を静かに見送っていた。

その目に宿るのは、静かな苛立ちか、それとも、言葉にならぬ疼きか。




通りの向こう。
麻里子が、男と並んでタクシーに乗り込む。

肩を寄せるでもなく、恋人らしいそぶりもない。
けれど、そんなことはどうでもよかった。

問題は、麻里子が笑っていたということだ。
あの男に。あの男だけに。

貴之の視界の中心に焼き付いたのは、
他の誰にも見せたことのないはずの、
柔らかくほどけた麻里子の微笑みだった。

あれが、麻里子の「新しい男」か。

知らない顔だ。見たことも、聞いたこともない。
だが、並んで歩くその距離感。自然な会話のテンポ。
それらすべてが、貴之の神経を逆なでしてくる。

なぜ、俺はあの男のことを知らない?

いや、それよりも先に。

なぜ、麻里子は俺以外の男に、あんな顔を見せる?

やがて走り去るタクシーを、貴之は無言で見送った。けれど、目はまったく動かず、その光景に釘付けになったままだった。胸の奥で何かがじくじくと熱を持ち始め、やがてゆっくりと全身に広がっていく。

「……あんな顔、俺にはまだ見せてないくせに」

舌打ちすら喉奥に飲み込みながら、貴之は静かに拳を握りしめた。コンクリートの壁に押し付けた手の甲から、鈍い痛みが滲む。それすら心地よいと思えるほど、抑え込まれた怒りが煮えたぎっていた。



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