その抱擁は、まだ知らない愛のかたち

小料理屋

「……それでね、麻里子ちゃん、うち、来月からランチ営業も始めようと思ってるの。お手伝い、お願いできるかしら?」

おかみ・志乃の優しい声に、麻里子は箸を止めて顔を上げた。年季の入った木のカウンターには、焼き茄子の香りがふわりと漂っている。

「はい、もちろん。まだまだ勉強中ですけど……よろしくお願いします」

志乃はふふっと微笑むと、カウンターの内側で小さくうなずいた。

「しっかりしてるわよ、あなた。包丁の使い方もきれいだったし、気が利くし。それに、ちゃんと調理師の免許も目指してるんでしょ?」

「ええ、来年の春に受験する予定です」

麻里子の声は、どこか誇らしさと不安が混じっていた。和彦が横で静かに聞いているのを感じながら、彼女はお冷を一口飲んだ。

「将来、小料理屋を開くのが夢なの」

「まあ、素敵ねえ。お料理で人を喜ばせたいって気持ち、よく伝わってくるわ。……でも、こんなにしっかりしてたら、そろそろ結婚の話とか、出てきてもおかしくないんじゃない?」

志乃のおだやかな声だったが、その言葉に麻里子の胸の奥が、少しだけ波打った。

――結婚。

脳裏に浮かんだのは、貴之の横顔。あの人の不器用で、まっすぐで、時々こわいくらい真剣な眼差し。

けれど。

「……いえ、そういう相手はいません」

麻里子は、少し笑って答えた。嘘ではない。でも、真実のすべてでもなかった。

「そう?もったいないわよ、こんなに優しくてしっかりしてるのに」

志乃が苦笑交じりに言うと、和彦が横から「俺が先に見つけとくべきだったかな」と冗談めかして言った。麻里子は肩をすくめて、小さく笑った。

「今はまだ、自分のことで精一杯です。夢もあるし……やりたいこともたくさんあって。食を巡る旅もしたいし、いろんな土地で味を覚えたい。……結婚って、誰かの時間に寄り添うことだと思うんです。だから、きっと迷惑をかけてしまうなって」

それは、誰に向けて言っているのか、麻里子自身もわからなかった。

言い訳のようでもあり、願いのようでもあった。

「結婚か、夢か……どちらかひとつを選ばなきゃいけないような気がして」

ぽつりとこぼれたその言葉に、志乃も和彦も、しばし沈黙した。

「でもね、麻里子ちゃん」

志乃が静かに言った。

「夢を持ってる人って、それだけで魅力的よ。その夢に寄り添いたいと思う人も、きっとどこかにいる。無理にあきらめなくても、いいのかもしれないわ」

麻里子は、胸の奥がじんと熱くなるのを感じながら、志乃に深く頭を下げた。

「ありがとうございます……もう少し、自分のことを信じてみようと思います」

食器の音が、心地よく響く夜だった。




小料理屋を出ると、夜の空気が頬に触れた。
少しひんやりしていて、酔いが静かに醒めていく。

「じゃあ、俺はこっちで。今日はありがとうな、麻里ちゃん」
和彦はいつものように軽く手を振って、駅のほうへ歩いていった。

麻里子はスマートフォンを見て、小さくため息をつく。
終電は、とうに過ぎていた。
それほどまでに、話が弾んでいたのだ。志乃さんの料理への想いや、食材の選び方、和彦の旅先での食レポ武勇伝まで。笑いながら、気づけば夜も深くなっていた。

「楽しかったな……」

麻里子はそう呟くと、近くを通りかかったタクシーに手を挙げた。

車内は、静かだった。運転手も、こちらに話しかけてこない。その沈黙が、今の麻里子には心地よかった。

夜の街並みが窓の外をすべっていく。その灯りの粒をぼんやりと見つめながら、自然と、さきほどの会話が頭の中に蘇ってくる。

「結婚か、夢か……どちらかひとつを選ばなきゃいけないような気がして」

自分が言ったその言葉が、まるで誰かのもののように遠く感じられる。

なぜ、私はそう思い込んでいるのだろう?

貴之さんの仕事は多忙で、余裕がある人ではない。
だから、私が夜遅くまで働いたり、週末もイベントや出張に出ていたら、きっと負担になる。
彼のそばにいる資格なんて、ない。そう思っていた。

でもそれは、私の「思い込み」だったのかもしれない。

私が思い描いていた“結婚”というもの、
妻は家で待っていて、支えて、尽くして、いつも笑顔で…
それは一体、誰が決めた姿なんだろう。
私は、自分の夢を語るとき、いつもどこかでブレーキをかけていた。
誰かの価値観を、まるで正解のように信じて。
……それでも、ほんの一瞬、あの人と未来を想像してしまった。
それは、間違いじゃない。きっと、私の中にちゃんとある「願い」だった。

窓の外を流れる街の明かりが、滲んで見えた。

選ばなきゃいけないのではなく、
願いと夢を、重ねていく方法があるのかもしれない。

そう気づきかけている自分に、まだ戸惑いながらも、
タクシーは静かに、夜の街を走り続けていた。
< 113 / 127 >

この作品をシェア

pagetop