その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
「かずちゃんには奥様もいらっしゃるし、三人の子どももいるわ」

麻里子は淡々と、けれど明確に言葉を重ねる。
その声には、かすかな傷心と、芯の強さが滲んでいた。

「お互いに、恋愛感情なんて一度も持ったことないの。
もし仮に……少しでもそんな感情を抱いていたとしたら、もうとっくに結婚してるわよね?」

貴之は言葉を失ったように、わずかに目を伏せた。

「……それは、そうだな」

ぽつりと漏れたその言葉とともに、再び沈黙が落ちる。
だが先ほどのような緊迫とは違い、その沈黙には、互いの心が交錯する余地があった。

麻里子はゆっくりと深呼吸をした。
そして、至極真剣な顔で、貴之をまっすぐに見据える。

「私は、あなたを裏切ってなんかいないわ」

そのひと言は、静かだが鋭かった。

「でも、あなたは」

一拍、間を置いて。

「私があなたに抱かれながら、ほかの男の人にも身を委ねられる……そんな女だと思っていたのね?」

その言葉には、明確な怒りが込められていた。
麻里子の瞳が潤むことはなかった。
ただ、誇りを傷つけられた女として、凛とした怒気がそこに立っていた。

貴之は目をそらすことができなかった。
その言葉に、図星を突かれた自分の浅はかさが、胸に突き刺さる。

「……すまなかった」

かすれるような声で、貴之は頭を垂れた。

麻里子の沈黙が、それに答えるように長く続いた。
それは彼女の怒りの余韻であり、彼女の品位でもあった。

「……俺は、ただ嫉妬で、気が狂いそうだったんだ」

貴之はかすれた声で、苦しげに言葉を吐き出す。
視線を落としたまま、拳をぎゅっと握りしめる。

「麻里子が……俺に、何も話してくれなかったから。
そうされるってことは……俺にはもう、信頼がないんじゃないかって思ってしまって……」

唇を噛みしめ、胸の奥に押し込めていた感情が、堰を切ったように溢れていく。

「頼ってもらえないことが、たまらなく悲しかった。
ずっと……お前のすべてを受け止めたいと思ってるのに、
どんなに愛しても、俺の気持ちは届いていないのかもしれないって思うと、
どうしていいかわからなくなって……」

貴之の声が震える。
感情を必死に押しとどめるように、眉をひそめて言葉をつなぐ。

「お前が誰かに笑ってるだけで、胸が締めつけられた。
もう俺じゃない誰かに、心を許してるんじゃないかって——
そう考えるたびに、自分でもわかるくらい……歪んでいった」


「……ごめん。
俺が一番、お前を傷つけた。
誰よりも守りたかったのに……」

そう言い終えたあと、彼はふっと目を閉じ、深く息を吐いた。
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