その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
麻里子は胸が詰まる思いがした。
誇り高く見えていた彼が、こんなにも脆く、壊れそうな声で本音を吐き出すなんて…
彼の苦しみが、自分への想いの深さそのものだったと、麻里子はその瞬間、はじめて気づいた。

「あなたに話したいことが、たくさんあるの。でも……まだ、自分の中で整理がついていなくて」
麻里子は、俯きがちに言葉を選ぶように続けた。
「ちゃんと話す。必ず。だから、もう少しだけ……時間をちょうだい」

貴之はじっと麻里子を見つめ、ゆっくりとうなずいた。
「わかった。でも、少しずつでいい。お前の言葉で、聞かせてくれると嬉しい」

麻里子はほっと息を吐き、微笑んだ。
「……そこは、努力します」
そう言って、そっと手を伸ばし、貴之のワイシャツの第一ボタンに指をかける。
柔らかく、ゆっくりと、まるで花びらを摘むような繊細さで、一つずつ外していく。

「……麻里子?」

戸惑いが滲んだ貴之の声に、麻里子はふと目を上げた。
そして、その瞳に、かすかな色香と、確かな意思が宿る。

「……抱いて、貴之」
声は甘く湿り、吐息に似た囁きとなって空気を震わせた。
「いっぱい……愛して」

名前を呼び捨てにされた瞬間、貴之の中で何かが音を立てて崩れた。
その声だけで、もう抗えなかった。

理性も、誇りも、どこか遠くへ滑り落ちていく。
ただ、この女神のような存在に己のすべてを、惜しみなく捧げさせてほしいと願う。

「……仰せの通りに」

その一言は、貴之という男が彼女の前で跪いた証だった。
征服者が、心からの献身者へと姿を変えた瞬間だった。

「愛してるよ、麻里子……」

彼女の唇に、自分のすべてを注ぎ込むように、深く、熱く、口づける。
ふたりの境界が、ゆっくりと、ほどけていく。

それはただの欲望ではない。
心がほどけ、体が開かれ、自らの意志で愛される悦びを選び取る、麻里子という“女”の、静かなる覚醒だった。

ふたりの吐息が重なり、時間が溶けてゆく。
この夜が終わっても、もう戻れない。
たった一度のまなざしと、一言の呼び名が、ふたりの関係をすべて変えていく…そんな予感を残しながら、夜はゆっくりと深く、熱を孕んでいった。

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