その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
ゆっくりと麻里子の体を離した貴之が、いつもの穏やかな声で尋ねた。
「麻里子、夕飯はどうするんだ?どこか食べに行かないか?」
「……シャワーも浴びたし、たくさん遊んだし……」
言いかけて、麻里子は一瞬言葉に詰まる。少し頬をかきながら、小さく笑った。
「今夜はもう、出かけたくないわ。適当に軽く済ませるつもり」
「そうか。じゃあ、俺は帰るよ」
貴之がさりげなく立ち上がり、玄関の方へと歩きかけた。その背中を見て、麻里子の胸がちくりとした。
思わず口を開いた。
「……ここで、食べてく?」
自分で言ってから、麻里子ははっとする。誘った自分に驚いたように、まつげが揺れた。
貴之は振り返り、驚いたように目を見開いたあと、ゆるやかに微笑んだ。
「いいのか?」
「……はい。お口に合うか、わからないけど」
ぎこちないながらも真っ直ぐなその言葉に、貴之の笑みが深まる。目元に柔らかい皺が刻まれた。
「弁当、いつも美味しそうだったからな。今夜は楽しみだよ」
「苦手なものとか、アレルギーは……?」
「特にない。俺、何でも食べるし、作ってくれたものは基本嬉しい」
そんなふうに言われると、麻里子は照れくさそうに視線をそらす。
「お酒は……冷蔵庫にビールと冷酒があるの。好きなのがなければ、コンビニに行ってきてもいいけど」
「見てみてもいいか?」
そう言って貴之は冷蔵庫を開け、中を眺める。すぐに声があがった。
「お、これ……いい? この銘柄の夏限定、けっこう好きなんだ」
「ええ、どうぞ。冷えたグラスも出すわね」
麻里子はキッチンの引き出しをすばやく開け、冷えたグラスを出すついでに、豆腐を丁寧に切って冷ややっこを盛りつける。
「ありがとう。麻里子も飲むか?」
「……ええ、いただくわ」
グラスを手にした指先が少し震えていて、それを見た貴之はふと表情を緩めた。無理に言葉にはせず、もう一つのグラスにビールを注ぎ、そっと彼女の前に差し出す。
「乾杯」
グラスがふれあう音は静かだったが、心のどこかにぽんと火が灯るような、あたたかさが広がった。
ゆったりとした空気のなか、ふたりの距離が、音もなく近づいていく。
「どのくらい食べられそう?」
エプロンの紐を結びながら、麻里子が少しだけ首を傾けて聞いた。
「けっこう腹は減ってるな。でも、無理するなよ?」
貴之の気遣うような声に、麻里子はくすっと笑った。
「揚げ物……食べられる?」
「おおっ、いいな!ぜひ!」
その即答に、麻里子の手が自然と動き出す。冷蔵庫を開けて、仕込み済みの鶏肉を取り出し、流れるような手つきで準備を進めていく。
まな板の音、油のはぜる音が台所に広がる頃、作り置きの小鉢が次々と並び始めた。自家製のイカの塩辛、ほんのり赤いキムチ、野菜のナムル……どれも手間のかかった家庭の味だ。
貴之は、そのひとつひとつを眺めながら、箸を取り上げて静かに口へ運ぶ。ビールの泡が喉を心地よくすべり、ふっと肩の力が抜ける。
「揚げ物してる間、適当に過ごしてて。テレビのリモコンはそこにあるわ」
麻里子が、グラスを持つ貴之のすぐそばを指さした。
「了解。お邪魔します」
初めて足を踏み入れた麻里子の部屋。貴之はグラス片手に、改めてゆっくりと周囲を見渡した。
物は多すぎず、少なすぎず。程よく生活感があり、落ち着いた雰囲気が漂っている。窓辺の観葉植物が空気をやわらげ、テーブルには一輪挿しの黄色い花が咲いていた。
ふと、その花瓶と自分の手にあるグラスが似ていることに気づく。どこか丸みのある、優しいガラスの質感。麻里子らしい、細やかな感性が垣間見えた。
部屋のすみに置かれた低めの本棚に目をやる。文庫本が並んでいて、どんな本を読むんだろうと、興味を惹かれるままに視線を滑らせる。
ひときわ目立つのは、書店のカバーがかけられた文庫本。指が自然と伸びた。そっと手に取り、ぱらりと開いてみると──
《強引社長は初恋の彼女をとらえて離さない》
《極上の溺愛ラブストーリー》
……なんだこれは。
一瞬、言葉を失う。中表紙には、キラキラとしたフォントに並ぶタイトル。可愛らしい挿絵。どう見ても若い女子向けの恋愛小説だ。
「唐揚げ、あがりました〜」
麻里子の声がキッチンから届いた瞬間、貴之は慌てて本を棚に戻す。
――いやいや、これは見なかったことにしよう。
ダイニングテーブルに腰を下ろすと、麻里子が苦笑しながら言った。
「退屈な部屋でしょ? 何にもないの」
「いや、落ち着く。居心地、いいよ」
そう言いながら、貴之は揚げたての唐揚げに箸を伸ばした。衣がパリッと音を立て、中からじゅわっと肉汁があふれる。自然と顔がほころぶ。
麻里子は、手際よく次々と料理を運んできた。温かい料理がテーブルの上に増えていくたび、部屋の空気もやさしく満ちていく。
その横で貴之は、スマホを片手にこっそりと検索をかける。
――強引社長、溺愛……これだな。
ひとしきり眺めたあと、無言で“ポチッ”と購入ボタンを押した。
まるで、彼女の知らない一面をこっそり手のひらに忍ばせるかのように。
「麻里子、夕飯はどうするんだ?どこか食べに行かないか?」
「……シャワーも浴びたし、たくさん遊んだし……」
言いかけて、麻里子は一瞬言葉に詰まる。少し頬をかきながら、小さく笑った。
「今夜はもう、出かけたくないわ。適当に軽く済ませるつもり」
「そうか。じゃあ、俺は帰るよ」
貴之がさりげなく立ち上がり、玄関の方へと歩きかけた。その背中を見て、麻里子の胸がちくりとした。
思わず口を開いた。
「……ここで、食べてく?」
自分で言ってから、麻里子ははっとする。誘った自分に驚いたように、まつげが揺れた。
貴之は振り返り、驚いたように目を見開いたあと、ゆるやかに微笑んだ。
「いいのか?」
「……はい。お口に合うか、わからないけど」
ぎこちないながらも真っ直ぐなその言葉に、貴之の笑みが深まる。目元に柔らかい皺が刻まれた。
「弁当、いつも美味しそうだったからな。今夜は楽しみだよ」
「苦手なものとか、アレルギーは……?」
「特にない。俺、何でも食べるし、作ってくれたものは基本嬉しい」
そんなふうに言われると、麻里子は照れくさそうに視線をそらす。
「お酒は……冷蔵庫にビールと冷酒があるの。好きなのがなければ、コンビニに行ってきてもいいけど」
「見てみてもいいか?」
そう言って貴之は冷蔵庫を開け、中を眺める。すぐに声があがった。
「お、これ……いい? この銘柄の夏限定、けっこう好きなんだ」
「ええ、どうぞ。冷えたグラスも出すわね」
麻里子はキッチンの引き出しをすばやく開け、冷えたグラスを出すついでに、豆腐を丁寧に切って冷ややっこを盛りつける。
「ありがとう。麻里子も飲むか?」
「……ええ、いただくわ」
グラスを手にした指先が少し震えていて、それを見た貴之はふと表情を緩めた。無理に言葉にはせず、もう一つのグラスにビールを注ぎ、そっと彼女の前に差し出す。
「乾杯」
グラスがふれあう音は静かだったが、心のどこかにぽんと火が灯るような、あたたかさが広がった。
ゆったりとした空気のなか、ふたりの距離が、音もなく近づいていく。
「どのくらい食べられそう?」
エプロンの紐を結びながら、麻里子が少しだけ首を傾けて聞いた。
「けっこう腹は減ってるな。でも、無理するなよ?」
貴之の気遣うような声に、麻里子はくすっと笑った。
「揚げ物……食べられる?」
「おおっ、いいな!ぜひ!」
その即答に、麻里子の手が自然と動き出す。冷蔵庫を開けて、仕込み済みの鶏肉を取り出し、流れるような手つきで準備を進めていく。
まな板の音、油のはぜる音が台所に広がる頃、作り置きの小鉢が次々と並び始めた。自家製のイカの塩辛、ほんのり赤いキムチ、野菜のナムル……どれも手間のかかった家庭の味だ。
貴之は、そのひとつひとつを眺めながら、箸を取り上げて静かに口へ運ぶ。ビールの泡が喉を心地よくすべり、ふっと肩の力が抜ける。
「揚げ物してる間、適当に過ごしてて。テレビのリモコンはそこにあるわ」
麻里子が、グラスを持つ貴之のすぐそばを指さした。
「了解。お邪魔します」
初めて足を踏み入れた麻里子の部屋。貴之はグラス片手に、改めてゆっくりと周囲を見渡した。
物は多すぎず、少なすぎず。程よく生活感があり、落ち着いた雰囲気が漂っている。窓辺の観葉植物が空気をやわらげ、テーブルには一輪挿しの黄色い花が咲いていた。
ふと、その花瓶と自分の手にあるグラスが似ていることに気づく。どこか丸みのある、優しいガラスの質感。麻里子らしい、細やかな感性が垣間見えた。
部屋のすみに置かれた低めの本棚に目をやる。文庫本が並んでいて、どんな本を読むんだろうと、興味を惹かれるままに視線を滑らせる。
ひときわ目立つのは、書店のカバーがかけられた文庫本。指が自然と伸びた。そっと手に取り、ぱらりと開いてみると──
《強引社長は初恋の彼女をとらえて離さない》
《極上の溺愛ラブストーリー》
……なんだこれは。
一瞬、言葉を失う。中表紙には、キラキラとしたフォントに並ぶタイトル。可愛らしい挿絵。どう見ても若い女子向けの恋愛小説だ。
「唐揚げ、あがりました〜」
麻里子の声がキッチンから届いた瞬間、貴之は慌てて本を棚に戻す。
――いやいや、これは見なかったことにしよう。
ダイニングテーブルに腰を下ろすと、麻里子が苦笑しながら言った。
「退屈な部屋でしょ? 何にもないの」
「いや、落ち着く。居心地、いいよ」
そう言いながら、貴之は揚げたての唐揚げに箸を伸ばした。衣がパリッと音を立て、中からじゅわっと肉汁があふれる。自然と顔がほころぶ。
麻里子は、手際よく次々と料理を運んできた。温かい料理がテーブルの上に増えていくたび、部屋の空気もやさしく満ちていく。
その横で貴之は、スマホを片手にこっそりと検索をかける。
――強引社長、溺愛……これだな。
ひとしきり眺めたあと、無言で“ポチッ”と購入ボタンを押した。
まるで、彼女の知らない一面をこっそり手のひらに忍ばせるかのように。