その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
料理をすべてテーブルに並べ終えると、麻里子もそっと椅子を引き、貴之の向かいに腰を下ろした。

グラスを手にしてひと息ついた貴之が、箸を進めながらぽつりとつぶやく。

「……どれもこれも、うまいな」

その一言に、麻里子は思わず頬を緩めた。

「料理、好きなのか?」

「……はじめは、そうでもなかったの」

そう言いながら、麻里子は唐揚げにレモンを絞る。

「母が病弱でね。これくらいしか、手伝えることがなかったの。毎日、慣れない手つきで台所に立って……それが、だんだん出来ることが増えてくると、楽しくなってきて」

レモンの香りがふわりと漂う。

「今は、趣味のひとつ、かな」

その語り口には、どこか柔らかな誇らしさが滲んでいた。

貴之は唐揚げを口に運びながら、麻里子の手際の良さを思い返していた。次々と料理を用意しながらも、最後のひと皿を運んでくるときには、キッチンまわりがまるで使う前のように整っていた。

几帳面で無駄がなく、それでいて温かみのある段取り…それは、時間を丁寧に重ねてきた人の所作だった。

「じゃあ……普段も、ほとんど自炊なんだな?」

「そうね。やりたいこともあるし、食事の時間を静かに楽しみたいから、家でのんびり飲むのも好き」

麻里子はそう言って、グラスのビールを少し傾けた。

「時間に追われないって、いいものよ。味付けも自分好みにできるし、気分でメニューも変えられるし」

「……わかる。俺も最近は、外食ばっかりだと落ち着かなくてな」

「でも、食べるのは好き。興味はあるから、外での食べ歩きも楽しんでるわ」

その言葉に、貴之は穏やかに頷いた。

こんなふうに、肩の力を抜いて話せる相手と過ごす食事は、どんな高級店よりも贅沢かもしれない—そんなことをふと思いながら、またひと口、箸を進めた。

「……もう一本、いいか?」

貴之がそう言って空になった瓶を手に取ると、麻里子は笑って頷いた。

「どうぞ。冷えてるの、もう一本あるわ」

立ち上がろうとする麻里子を、貴之が軽く制して代わりに冷蔵庫を開ける。

グラスにビールを注ぎながら、ふとテーブルの上の器に目を留めた。

「ガラスの食器が好きなのか?」

「……ああ、これ?」

麻里子は指先でそっと、自分のグラスのふちをなぞった。

「そうね、これはお気に入り。友達と旅行したときに、一目惚れしたの。津軽びいどろよ」

淡い青と透明が溶け合ったガラスは、氷と光を映して涼しげに輝いている。

「特に夏にはね、季節を感じるものを使いたくなるの。食卓がぱっと華やぐし、料理を合わせるのも楽しくて」

「……なるほど。確かに、華やいでる」

貴之は改めてグラスに目をやり、麻里子の趣味の良さに感心していた。

「でもね」

麻里子は言葉を少し切って、微笑を浮かべた。

「たくさんは要らないの。ありすぎても困るし……本当に好きなものだけを、日常でちゃんと使いたいのよね」

その声には、ものを丁寧に選び、丁寧に使う人の凛とした美しさがあった。

貴之は無言で頷き、グラスを傾ける。

麻里子は少し席を立って冷蔵庫から冷酒を取り出しながら、ふと思い出したように言った。

「次は冷酒にしましょう。このおつまみに、すごく合うのよ」

嬉しそうに目を輝かせながら、手際よくとっくりとお猪口を用意する。

その様子に、貴之の口元がゆるむ。

—この人の“好き”に触れるたび、もっと知りたくなる。

ゆったりと注がれる冷酒の香りとともに、ふたりの夜は静かに、けれど確実に深まっていった。
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