その抱擁は、まだ知らない愛のかたち

木曜日と金曜日の上司は機嫌がよろしくないようで

麻里子は玄関の鏡で全身をチェックすると、小さく頷いて「今週も頑張ろう」と気合いを入れた。
この一週間を乗り切れば、待ちに待った夏季休暇が始まる。

会計事務所の8月は閑散期。多くの社員が交代で休みを取る中、麻里子も今年はたっぷり9日間の夏休みを確保していた。
いくつか軽めの予定は入れてあるものの、独り身の気ままさを活かして、ふと思い立ったらふらりと旅に出るのが麻里子の楽しみだ。
海外は少しハードルが高いが、平日のおひとり様旅なら、直前でも比較的予約が取りやすい。

──今年も、東北に行こうかしら。

そう思った瞬間、ふと、以前貴之と交わした会話が頭をよぎった。
「青森もいいけど、山形も風情があっていいぞ」
あのとき、彼が珍しく穏やかな声でそう言ったのを思い出す。

……銀山温泉。
ノスタルジックな温泉街を浴衣で歩く自分の姿を想像して、思わず頬が緩んだ。

今年の夏は、山形にしてみようか。
その思いつきが、少しだけ心を明るくしてくれた。

今日も麻里子は、いつも通り淡々と仕事に向き合っていた。
繁忙期には手が付けられなかった案件を一つひとつ丁寧に片づけていく。
静かだが充実した時間。そんな仕事の日常の中で、ふと、頭の片隅に浮かぶのは…来週からの夏休み。

貴之所長も、来週からきっかり一週間の休みに入ると聞いている。
普段は仕事一筋の人が、どんな風に休みを過ごすのだろう。
そんなことを考える自分に、少しだけ驚く。

けれど、麻里子自身も楽しみにしている予定がある。
今日は木曜日。仕事が終わったら、初めての麹料理教室に参加する日だ。
会社と自宅のちょうど中間にある教室は、立地も雰囲気も気に入っている。
体にやさしく、美味しく、美しく。そんなキーワードに惹かれて、思い切って申し込んだのだった。

そして—明日は待ちに待った“前夜祭”。

そう、麻里子は一人で盛大に家飲みを楽しむつもりでいる。
理由はひとつ。長年支払い続けてきたマンションのローンが、明日でとうとう完済するのだ。
ささやかだけれど、心からの自分へのご褒美。

昨夜、自宅に届いたのは、とっておきの“お取り寄せ”たち。
普段は手を出さないちょっと贅沢な品々だ。
料理をせずとも、器に盛るだけで心が躍るような美味しい時間を準備している。

「前夜祭、みたいなものね」

心の中でそうつぶやくと、自然と頬がゆるんだ。

ささやかな幸せを、大切に味わえる人間でいたい。
そんな思いとともに、麻里子はパソコンのキーボードに指を戻した。
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