その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
出先から戻ってきた貴之は、ちょうど出迎えた麻里子に声をかけた。

「麻里子さん、今夜の予定は?」

「会食の予定は入っておりませんが」

「そうじゃなくて……君自身の予定だ」

「は?」

麻里子は一瞬、きょとんとした表情を浮かべた。

「私の予定、ですか? ええ、退社後には予定があります」

「……何の予定が入っているんだ?」

「プライベートなことですので、お答えする義務はないかと」

きっぱりと返されて、貴之が返す言葉に詰まったその時、

事務所の奥に残っていたベテラン社員の佐藤が、半ば苦笑混じりに口を挟んだ。

「所長、それってセクハラですよ〜」

(ちっ……まだいたのか)

内心で舌打ちしながらも、貴之は冷静を装って一歩引いた。

「すまなかった」

低く、謝罪の言葉だけを麻里子に向ける。

「では、お先に失礼します」

麻里子は淡々と頭を下げ、佐藤と一緒に事務所を後にした。

—扉が閉まる音が、妙に耳に残る。

苛立ちは、消えるどころか募る一方だった。
今夜こそ、麻里子を食事に誘うつもりだった。
夏休み前、ようやく区切りのついた仕事の山を乗り越え、彼女とゆっくり時間を過ごそうとずっと思っていた。
そのために、休暇のスケジュールも調整した。
あえて麻里子の夏休みと同じ週に、自分の休みを重ねたのだ。

—もちろん、彼女にはまだ知らせていない。

完璧に準備していたはずだった。
なのに、一言、踏み込むだけで、こんなにもあっさりと交わされてしまうとは。

けれど、貴之はあきらめない。
あの人は、自分が何を考えているのか、まだ何も知らないのだから。

—「プライベートなことですので、お答えする義務はないかと」

あの冷ややかな言い方が、何度も頭の中でリフレインする。

なんだ、それは。
あれだけ一緒に過ごした先週末の時間は、彼女にとって“ただの上司との食事”だったということか?

俺は—あれで、自分の意思を伝えたつもりだった。
距離を縮め、踏み込んだつもりだった。
ほんの少しでも、麻里子の心に足を踏み入れたと、そう信じていたのに。

伝わっていなかったのか?
いや、そもそも……彼女は最初から受け取る気すらなかったのか?

だったら—あの夜の、あのキスは何だったんだ。

とろけるような表情を浮かべて、潤んだ目で俺を見つめて……あれは、演技じゃなかったはずだ。
いや、演技なんてできる女じゃない。
もしかして——恋愛経験が少ないのか?
それなら、単純に鈍感なだけ……?

それでも、イラつく気持ちは抑えきれない。

ちくしょう、今夜の予定って、なんなんだ。
誰といる? 
本人は「恋人はいない」と普段から言っていたけれど、本当にそうなのか?

まさか……マッチングアプリで誰かと会うとか?

想像は止まらない。
余計な妄想が、彼の神経を逆なでする。
心の奥でぐるぐると嫉妬が渦を巻き、冷静さがじわじわと崩れていく。

そのとき、ポン、と机の上のスマートフォンが震えた。
メッセージの着信音。

《今夜、一緒に飲まないか?》
送ってきたのは、親友の滝沢真樹だった。

この間、街中ですれ違ったときに「今日か明日なら空いてる」と言っておいたことを、ちゃんと覚えてくれていたらしい。

貴之は短く返信する。

《おう、了解》

あいつと会うのは、あいつの再婚してから初めてだ。
たまには、ざっくばらんに話してみるか。
一人で考えているより、よほどましだ。

イライラと嫉妬で張り詰めていた心が、ほんの少しだけほどけていく。

—麻里子のことをどうするかは、やっぱり今夜、冷静になって考えよう。
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