その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
「久しぶりだな、貴之。そろそろゆっくりできそうか?」
真樹がバーカウンターの高めのスツールに腰かけながらグラスを傾ける。
「来週から夏季休暇だ。社長じゃないから、しっかり休める。羨ましいか?」
軽く笑いながら貴之が返す。
「……その顔だと、結婚生活は順調のようだな」
「おかげさまで」
真樹は口元だけで笑い、グラスの中の琥珀色の液体をゆっくり揺らす。
「今日は嫁さんはいいのか?」
「ああ。この近くの料理教室に通い始めたらしくてな。今夜が初日だ」
「へえ、意外だな。料理は得意って言ってなかったか?」
「なんでも“麴料理”っていうのを学びたいらしい。知らないことを知るのが楽しいんだとさ」
「麴料理か……」
貴之の胸に、あの日のカフェでの麻里子の笑顔がふっと浮かぶ。
和風プレートを目を細めて頬張っていた、あの穏やかで幸せそうな顔。
「……なんだ、その顔。にやけてるぞ。おい、もしかして…貴之、好きな女でもできたか?」
真樹がからかうように眉を上げる。
「ああ。そうだ。……正直、苦戦してる」
「は?」
グラスを置き、真樹がこちらを見やる。
「お前が? 百戦錬磨の、理論派で隙のない男が?」
「だからこそ、手強いんだ」
「……それは面白い。全部吐け。場合によっちゃあ、助言してやってもいいぞ」
貴之は、一呼吸置いてから話し始めた。
「彼女は、うちの事務所の秘書だ。二年前に俺が異動になった時から一緒に働いている。仕事は正確だし、ミスはしない。プロ意識も高くて、誰に対しても礼儀正しい。部下や取引先からの信頼も厚い。……正直、事務所にとって手放せない存在だ」
「なるほど。で?」
「一年以上前から……たぶん、好きになってた。気づいたら、いつも目で追ってた」
「なるほどな。それで、行動は?」
「先週末、ようやくデートらしきものに誘った。食事して、少し長く話して、最後に—キスもした」
「おお、進んでるじゃないか」
「……でも、伝わってない。今日、俺が今夜の予定を聞いたら、『プライベートなことなのでお答えする義務はない』って返された」
真樹が口をつぐみ、眉を寄せる。
「それ、結構冷たいな。で、彼女は?」
「多分、自分がどれだけモテてるか、わかってないんだ。取引先の男どもから、“彼女、恋人いるんですか?”なんて聞かれるたびに、『あれは俺の嫁さんですので』って、内心ではっきりけん制してる」
「……独占欲丸出しだな、お前」
「それなのに、本人はこっちの気持ちに気づいていない。キスも……たしかに応えてくれたと思った。けど、それでも俺が“上司”のままだったら、って思うと焦る。最近なんか、別の女子社員から“その質問の仕方はセクハラに当たりますよ”ってやんわり釘刺された」
「はは、それは……」
真樹が肩を震わせて笑う。
「貴之、お前、恋すると雑になるタイプだな」
「……かもしれん。けど、本気なんだ。彼女を妻にしたいと思ってる」
真樹は真顔に戻り、ゆっくりとうなずく。
「よし、了解。なら、俺の人生経験、総動員して助言してやるよ。
ただし—聞く覚悟があるなら、な」
グラスの氷が静かに溶けていく音だけが、しばしの沈黙を埋めていた。
真樹はその音を聞きながら、思案するようにウイスキーをひと口飲み、そして、低く言った。
「貴之。お前、頭はいいが……女の気持ちには鈍感だな」
「……は?」
「いや、正確に言えば、“自分の気持ち”を表現するのが、致命的に下手なんだよ。
デートして、キスした。それで伝わったはず、って思ってるんだろ?」
「……思っていた。今まで付き合った女はみんなわかっていた」
「お前も本気じゃなかったし、彼女たちもお前の外見や肩書に惚れていただけだろう」
「……」
「だとしたら、甘いな」
真樹が肩肘をカウンターにつき、やや前のめりになった。
「女は“される”ことより、“言われる”ことに救われる生き物だ。
態度じゃ足りない。言葉にしてやらないと、相手は不安になる」
「でも、キスに応えたんだぞ? あんな顔して……」
「だからって、恋人になった気でいるお前がバカだ」
ズバリと言い切られ、貴之はむっとしたように眉をひそめる。
「じゃあ、どうしろと」
「簡単なことだ」
真樹はにやりと笑い、指を一本立てる。
「“好きだ”と、はっきり言え。それも、下心抜きでだ」
「……」
「そのうえで、“君を大切にしたい。俺の人生にいてほしい”って伝えるんだよ。
それで逃げる女なら、それまでの関係だったってことだ。
でも、麻里子さんって子が、お前の目に狂いがないなら……ちゃんと受け止めるはずだ」
貴之はグラスの中身をじっと見つめ、低く言った。
「……言葉にするのが、怖かったのかもしれない」
「だろうな。お前は完璧主義だから、失うリスクを考えすぎる。でもな」
真樹はグラスを持ち上げ、軽く掲げた。
「女ってのは、“怖いけど、それでも君がほしい”って言われると、案外弱いもんだ。
守られるばかりじゃなく、求められることにも、女は生きてる実感を持つ。……美和子が言ってたよ」
「……説得力あるな。再婚しただけある」
「だろ?」
軽くグラスを合わせ、二人は黙ってウイスキーを喉に流し込んだ。
「で、どうする? 言うか?」
「……ああ。言う。逃げるのは、もうやめる」
真樹が満足そうに頷いた。
「いいね。男は、惚れた女に臆病になるくらいでちょうどいい。でも、ちゃんと向き合ってやれよ」
「助かった。ありがとう」
「いいって。……まあ、次はプロポーズの台詞でも相談に乗ってやるよ」
そう言って笑う真樹の目は、どこまでも頼もしかった。
真樹がバーカウンターの高めのスツールに腰かけながらグラスを傾ける。
「来週から夏季休暇だ。社長じゃないから、しっかり休める。羨ましいか?」
軽く笑いながら貴之が返す。
「……その顔だと、結婚生活は順調のようだな」
「おかげさまで」
真樹は口元だけで笑い、グラスの中の琥珀色の液体をゆっくり揺らす。
「今日は嫁さんはいいのか?」
「ああ。この近くの料理教室に通い始めたらしくてな。今夜が初日だ」
「へえ、意外だな。料理は得意って言ってなかったか?」
「なんでも“麴料理”っていうのを学びたいらしい。知らないことを知るのが楽しいんだとさ」
「麴料理か……」
貴之の胸に、あの日のカフェでの麻里子の笑顔がふっと浮かぶ。
和風プレートを目を細めて頬張っていた、あの穏やかで幸せそうな顔。
「……なんだ、その顔。にやけてるぞ。おい、もしかして…貴之、好きな女でもできたか?」
真樹がからかうように眉を上げる。
「ああ。そうだ。……正直、苦戦してる」
「は?」
グラスを置き、真樹がこちらを見やる。
「お前が? 百戦錬磨の、理論派で隙のない男が?」
「だからこそ、手強いんだ」
「……それは面白い。全部吐け。場合によっちゃあ、助言してやってもいいぞ」
貴之は、一呼吸置いてから話し始めた。
「彼女は、うちの事務所の秘書だ。二年前に俺が異動になった時から一緒に働いている。仕事は正確だし、ミスはしない。プロ意識も高くて、誰に対しても礼儀正しい。部下や取引先からの信頼も厚い。……正直、事務所にとって手放せない存在だ」
「なるほど。で?」
「一年以上前から……たぶん、好きになってた。気づいたら、いつも目で追ってた」
「なるほどな。それで、行動は?」
「先週末、ようやくデートらしきものに誘った。食事して、少し長く話して、最後に—キスもした」
「おお、進んでるじゃないか」
「……でも、伝わってない。今日、俺が今夜の予定を聞いたら、『プライベートなことなのでお答えする義務はない』って返された」
真樹が口をつぐみ、眉を寄せる。
「それ、結構冷たいな。で、彼女は?」
「多分、自分がどれだけモテてるか、わかってないんだ。取引先の男どもから、“彼女、恋人いるんですか?”なんて聞かれるたびに、『あれは俺の嫁さんですので』って、内心ではっきりけん制してる」
「……独占欲丸出しだな、お前」
「それなのに、本人はこっちの気持ちに気づいていない。キスも……たしかに応えてくれたと思った。けど、それでも俺が“上司”のままだったら、って思うと焦る。最近なんか、別の女子社員から“その質問の仕方はセクハラに当たりますよ”ってやんわり釘刺された」
「はは、それは……」
真樹が肩を震わせて笑う。
「貴之、お前、恋すると雑になるタイプだな」
「……かもしれん。けど、本気なんだ。彼女を妻にしたいと思ってる」
真樹は真顔に戻り、ゆっくりとうなずく。
「よし、了解。なら、俺の人生経験、総動員して助言してやるよ。
ただし—聞く覚悟があるなら、な」
グラスの氷が静かに溶けていく音だけが、しばしの沈黙を埋めていた。
真樹はその音を聞きながら、思案するようにウイスキーをひと口飲み、そして、低く言った。
「貴之。お前、頭はいいが……女の気持ちには鈍感だな」
「……は?」
「いや、正確に言えば、“自分の気持ち”を表現するのが、致命的に下手なんだよ。
デートして、キスした。それで伝わったはず、って思ってるんだろ?」
「……思っていた。今まで付き合った女はみんなわかっていた」
「お前も本気じゃなかったし、彼女たちもお前の外見や肩書に惚れていただけだろう」
「……」
「だとしたら、甘いな」
真樹が肩肘をカウンターにつき、やや前のめりになった。
「女は“される”ことより、“言われる”ことに救われる生き物だ。
態度じゃ足りない。言葉にしてやらないと、相手は不安になる」
「でも、キスに応えたんだぞ? あんな顔して……」
「だからって、恋人になった気でいるお前がバカだ」
ズバリと言い切られ、貴之はむっとしたように眉をひそめる。
「じゃあ、どうしろと」
「簡単なことだ」
真樹はにやりと笑い、指を一本立てる。
「“好きだ”と、はっきり言え。それも、下心抜きでだ」
「……」
「そのうえで、“君を大切にしたい。俺の人生にいてほしい”って伝えるんだよ。
それで逃げる女なら、それまでの関係だったってことだ。
でも、麻里子さんって子が、お前の目に狂いがないなら……ちゃんと受け止めるはずだ」
貴之はグラスの中身をじっと見つめ、低く言った。
「……言葉にするのが、怖かったのかもしれない」
「だろうな。お前は完璧主義だから、失うリスクを考えすぎる。でもな」
真樹はグラスを持ち上げ、軽く掲げた。
「女ってのは、“怖いけど、それでも君がほしい”って言われると、案外弱いもんだ。
守られるばかりじゃなく、求められることにも、女は生きてる実感を持つ。……美和子が言ってたよ」
「……説得力あるな。再婚しただけある」
「だろ?」
軽くグラスを合わせ、二人は黙ってウイスキーを喉に流し込んだ。
「で、どうする? 言うか?」
「……ああ。言う。逃げるのは、もうやめる」
真樹が満足そうに頷いた。
「いいね。男は、惚れた女に臆病になるくらいでちょうどいい。でも、ちゃんと向き合ってやれよ」
「助かった。ありがとう」
「いいって。……まあ、次はプロポーズの台詞でも相談に乗ってやるよ」
そう言って笑う真樹の目は、どこまでも頼もしかった。