その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
麻里子は、麹料理教室へ向かう電車の中で、先週の土曜日のことをふと思い出していた。
あれは……一体、どういうつもりだったのだろう?

胸がときめいたのは確かだった。あのとき、隣にいた貴之の表情も、声も、どこかいつもより優しくて。
でも、彼はあっさりと帰っていったし、その後も何も言ってこなかった。

……だから、あれはただの“デートごっこ”。
貴之さんだって、きっとそのつもりだったのよね。
会社でも時々、まるで冗談みたいに私のことを「俺の嫁さん」って言ってるし……。あれと同じ、ただのノリ。

うん、そうよ。あれ以上、変に意識しちゃダメ。
やっぱり、私はちゃんと「所長」って呼ばなくちゃ。

電車が最寄り駅に着くころには、麻里子の表情はすっかり明るくなっていた。
扉が開くと同時に、彼女は頭を切り替えたように、足取り軽くホームを歩き出す。
いまは貴之のことより、教室のこと—麹の香りと、今日のレシピ。
その瞬間、彼の存在はふっと、意識の外へ押しやられていた。


教室に着いた麻里子は、案内されたテーブルに着くと、ちょうど同じ時間に来た女性と顔を見合わせて微笑んだ。
涼しげな雰囲気と優しい目元が印象的なその女性は、「滝沢美和子」と名乗った。

「初めてなんです、こういう料理教室。ちょっと緊張してて」
そう言って笑う美和子の声に、麻里子はどこか親しみを覚えた。

「わたしもです。お味噌とか甘酒とか、最近気になってて……」
そんな共通点から、会話はすぐに弾み始める。

料理が好きなこと。
細かい作業が好きで、ガラス細工に惹かれていること。
そして、読書好きという点ではさらに盛り上がった。
好きな女流作家の名前が偶然にもまったく同じだったのだ。

「えっ、本当に?あの作品、わたしも大好きなんです」
「信じられない……そんなことってあるのね」

驚きと嬉しさが入り混じったような笑顔で、ふたりはすっかり打ち解けていた。
そして、自然な流れで連絡先を交換することに。

さらに話していくうちに、なんと自宅が隣のマンション同士だということまで判明して。
「えっ、あの建物? じゃあ、毎日どこかですれ違ってたかもしれないのね」
「すごい偶然……ううん、これはもう、縁としか言えないわね!」

すっかり意気投合したふたりは、教室が終わる頃には、まるで以前からの友人のように笑い合っていた。
静かで穏やかなはずの一日が、思いがけずあたたかい出会いの日となった。
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