その抱擁は、まだ知らない愛のかたち
料理教室の建物を出たところで、美和子がふと携帯を手にしながら言った。

「ねえ、タクシーでご一緒しない?方向、同じエリアだし」

少し年上の美和子に対して、麻里子は自然と敬語になる。

「はい、大丈夫ですよ」

「……あら、ちょっと待って。夫がこの近くにいるみたいなの。今、連絡がきたの」

「それなら、私はここで」

麻里子が遠慮がちに言いかけると、美和子がやわらかく微笑んで遮った。

「二人も三人も同じタクシーよ。せっかくだから、夫に麻里子さんを紹介したいの。今日初めてお友達になったばかりだけど、きっと気が合うと思うわ」

「……そうですか? じゃあ……はい、お願いします」

少しはにかみながらも、麻里子は明るく頷いた。
ふたりは並んでタクシー乗り場へ向かって歩き出す。

やがて待ち合わせの場所に近づくと、美和子が軽やかに手を振った。

「真樹さん〜、こっちよ」

その隣にいた人物を見て、麻里子は思わず立ち止まりそうになった。
—所長……?

一方で、貴之も麻里子に気づいた瞬間、ほんの一瞬目を見開いた。

「こんばんは、鈴木さん。ご無沙汰しています」
美和子がにこやかに貴之へと声をかける。

「こんばんは。こちらこそ、お久しぶりです」
貴之は落ち着いた笑みを浮かべて軽く頭を下げた。

「こちらは—」と美和子が麻里子を紹介しようとしたその瞬間、貴之が静かに言った。

「私の秘書の鈴木麻里子さんです」

「麻里子さん、初めまして。滝沢真樹です。美和子と仲良くなってくれたそうで、嬉しいです」
真樹が意味ありげに貴之を一瞥し、麻里子へと穏やかに微笑みかける。

「料理教室でご一緒だったとか。……ご縁ですね」

「は、はい。初めまして。よろしくお願いいたします」

麻里子は少し緊張しながらも丁寧にお辞儀した。
それでも心の中には、不思議な喜びがじんわりと広がっていた。

—なんて素敵なご夫婦なのだろう。
こうして出会えたことが、なんだかとても嬉しい。

彼女の胸の奥で、何かが小さくきらめいた。

タクシーには、運よく5人全員が一緒に乗ることができた。

後部座席に真樹、美和子と麻里子、助手席には貴之。その隣に運転手。狭い車内にもかかわらず、雰囲気はどこか温かかった。

「塩麹でマリネを作ったんですけど、ほんの15分でもう驚くほど柔らかくなって!」
美和子が目を輝かせて話すと、麻里子も頷きながら続けた。

「甘酒のドレッシングも絶品でしたよ。発酵の力ってすごいですね」

その会話に、思いがけず運転手も加わってきた。

「奥さんが漬物好きでね。趣味で漬けてたのが評判よくて、今じゃオンラインで売ってるんですよ」

「ええっ、すごいですね!」
と麻里子が驚けば、後部座席は一層にぎやかになり、運転手は誇らしげに名刺まで差し出した。

「もしよかったら、今度ぜひ味見してみてください」

そんな思わぬ交流まで生まれて、短い道中はあっという間に過ぎていった。

タクシーがマンションの前に到着すると、麻里子は一礼しながら微笑んだ。

「今日は本当にありがとうございました。タクシー代まで……ごちそうさまでした」

「いいのよ、気にしないで」
と美和子が微笑み返す。

麻里子が住むマンションは、三人の高層マンションの隣にある。

「それじゃあ、ここで失礼しますね」

そう言って歩き出そうとした麻里子の後ろから、貴之が一歩踏み出す。

「送っていくよ」

その瞬間、麻里子の携帯が小さく振動した。

「……すみません、ちょっとだけ」

遠慮がちにそう言って通話に出た麻里子の声が、柔らかく弾む。

「もしもし、お兄ちゃん!」

その嬉しそうな声に、貴之は言葉を失った。
麻里子は笑いながら短く会話を交わし、

「今、マンションの前にいるから。部屋に入ったらすぐかけ直すね。じゃあね」

と電話を切ると、ふたたび一礼しながら明るく言った。

「今日はどうもありがとうございました。おやすみなさい」

そして、少しだけ早足で去っていった。

静かになった空気の中、貴之はしばらくその背中を見送っていた。
その肩を、真樹がぽんと軽く叩く。

「……次、がんばれよ」

小声で、けれど温かいエールだった。

美和子は何も言わなかった。ただ、口元にふわりと微笑を浮かべながら、心の中でつぶやいていた。

—うちで、四人でディナーパーティーしなくちゃね。ふふ、楽しみ。

夜風が心地よく吹き抜ける中、それぞれの胸に、少しずつ違う余韻が残っていた。
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